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絶望と希望と繰り返しの日々。

先日、映画館で鑑賞いたしました
『MONDAYS/このタイムループ、上司に気づかせないと終わらない』
のストーリーでは、
同じ一週間が何度も繰り返されながら、
そのタイムループを終わらせるため、
さまざまなことを試そうとされるけれども、
毎回、また、同じ月曜日に戻されてしまう。

そういうような、
「毎回、また、同じ月曜日に戻されてしまう。」
というのは、やっぱり、
社会人の生活とは、全く同じ、
とは言えないものの、
似たような一週間が繰り返されるかのようだ、
というのを、暗喩されているのだろうかなあ。

それは、でも、たとえば、
社会人だけでなくって、
学校へ通う児童や学生においても、
授業の時間割が曜日で決まっているとすれば、
似たような一週間が繰り返されているようだ、
とも思われるやもしれない。

つまりはさ、
この現代を生きる現代人とは、
一週間及び曜日のサイクルによって、
動きながら、それは、つまり、
一週間及び曜日のシステムによって、
動かされている、と言えるやもしれないか。

そういうふうに考えるとすれば、ぼくは以前、
いつのときかは今回は詳しく記さないですが、
次の月曜日がやって来るのが、
つらくて、つらくて、たまらない、
という日々があったんだった。

それはさ、もう、あたかも、
新しくやって来る一週間が、
絶望のようで。

週末になれば、
ようやく休める、と思いながら、でも、
日曜日になり、夕方、そして、夜、と、
月曜日が近くなれば、
また、つらくなってくる。

なんにしろ、そういうような、
絶望のような一週間が続くような生活って、
つらい、としか言いようがない。

でも、このこともね、
今、考えてみれば、
一週間というサイクルによって、
ぼく自身が動かされている、
というか、もしくは、
一週間というシステムによって、
ぼく自身の気持ちが操られていた、
というか、つまり、これは、
「制度」の話しなんじゃあないか、って思うの。

そう考えてみるとしたら、たとえば、
「#8月31日の夜に。」と呼ばれる、
夏休みが終わりに近づき、
また学校へ行くのがこわい、
生きるのがつらい、と思われる、
という状況も、もしかしたら、
学校の長期の休み、という
「制度」によってもたらされている、
と言えるのやもしれない。

今、このような状況におられる方へ、
こういうふうにすればよいんだよ、
みたいなことはね、ぼくは、
安易には言えないんですが。

でも、ぼくとしては、
「絶望」を思いながら始まる
一日だったり、一週間だったり、もしくは、
次の日々だったり、よりもね、
わずかながらでも
「希望」を思いながら始まる
一日だったり、一週間だったり、もしくは、
次の日々であるように、と、のぞみたい。

ぼくならば、今はこうして、
その日起きてから、
朝だったり、午前だったり、の時間では、
日々、ブログを書いているんだけれども。
そのブログをね、毎日、
明日のブログを書くのが、
たのしみだ! って思いながら、
寝床へつけたい。

そういうような「たのしみ」が、
希望へとつながれば、と、
祈りたいのよね。

令和4年11月4日