しがない読者なりに。
昨日のブログでは、先週木曜日に発売なされました
村上春樹さんの長編小説『街とその不確かな壁』を、
読み終えたことを申しまして。そして、
先日のブログでも書いたですが、ぼくは
読書感想文を記すのが苦手ではあるんですが、
今回もまた、この読書の感想をね、
記す、というのはできがたいんだな。
そもそも、ぼくは
文芸批評家でも評論家でも無いので、
そんな、批評や評論もできないし、
こういう個人的なブログは書いているけれども、
かと言って、なかなか
文章だってもきちんと書けないんだから、
そんなぼくは、じぶん自身のことを
表現者ではなくって、
しがない読者だなあ、と想っているの。
そういえば、以前、長らく無職だったころには
図書館へ通ってはいろいろ本を読んでいて。
そのときのじぶんの肩書きとは、
「読者」なのだとじぶんで考えながら、たとえば、
じぶんの個人的な名刺を作るならば、
【読者 鈴木秀之】
って、記したいなあ! と思ったんだった。
今、また、あらためて考えてみると、この
【読者 鈴木秀之】
というのって、やっぱり、
ちょっとまぬけっぽくって、
なんだか、好きだなあー。
読者とは、ただただ
読書をするだけで、その
読書の感想だっても、
書きたければ書けばよいし、べつに
書かないといけないわけではないんだ〜。
のほほん、と、
のんべんだらり、と、
本を読む人、それが読者、
つまりは、ぼくなのです。
村上春樹さんの新作長編
『街とその不確かな壁』及び、1985年刊行の
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』では、
「夢読み」という職業(?)が
物語の中で登場するけど、それが
なにを表されているか? ってえのは、
ぼくにはまったくわからないけれども。
(夢を読む、って、どういうことなんだろう?)
拡大解釈をするとすれば、たとえば
「読者」とは、ここで描かれる
「夢読み」なのではないか?!
とも、思いつつ、
でも、やっぱり、ぼくは
「読者」ではあったとしても、
「夢読み」のごとく、つまりはさ、
そんなにも、大それたことは
できないかもしれない、とも感じたりもする。
このたび、村上春樹さんの
『街とその不確かな壁』を読みながら、
物語に登場する「夢読み」のように
夢を読むことはできないとしても、
ぼくは、ぼくなりに、つまり、
しがない読者なりに、
読書をしてゆけたら、
と、想ったんだった。
令和5年4月20日