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先生の一人称と橋渡しの役のこと。

このごろのブログでは、先日映画館で観ました
山崎エマ監督のドキュメンタリー映画作品
『小学校〜それは小さな社会〜』を観ながら、
思ったことを申しあげまして、でも、まだ
もうすこしだけ考えていることをブログしるします。

映画の舞台となっている小学校の先生方が、
児童へと語りかけられる際、ある先生は
ご自身のことを「先生は、」と仰い、またある先生は
ご自身のことを「俺は、」と仰っていた。
つまり、先生は、じぶん自身を表す
「一人称」は、おのおのちがうのだと思われる。

ぼくは現在パートタイマーで、小中学生を教える
学習塾講師として勤めているのですが、つまりは、
生徒さんたちから「先生」と呼ばれる。
けれども、ぼく自身は、塾の教室において
じぶん自身の一人称を、極力
「先生」とは言わないことにしている。
とは言えども、ならば、一人称を
どうするのか? って考えるならば、
「俺」と言う場合もあるけれど、でも、たとえば、
社会人としてのフォーマルな言い方は
「私」なのだとは存じますが、ぼくは
「私」という感じでもないし、ともすれば、
塾の教室にて、ぼくは、ぼく自身のことを
「ぼく」と呼んでいる。

そう言うぼくに対して、
あるとき、ある生徒さんから
「その『ぼく』っていうの、やめて!」
とのように言われたこともある。

先生であり、なおかつ、大人である私が
私自身のことを「ぼく」と呼ぶことに、
生徒さんは気色悪く感じられたやもしらない。
とは言ってみても、ならば、私は
私のことをなんと言えばよいのだろう?
というふうに、この生徒さんへ訊ねてみても
答えはなんだか出なかったし、このことは、
けっこうむつかしい問題なのだとも思われる。

日本語における、とくには
「男性」を表す一人称は、いろいろ
あるとも言われていると思うけれども。
そのなかから何を選ぶのか? というのは、
その人自身の裁量にかかっている。

私の場合は、じぶん自身のことを
「私」と言う状況もあるし、
「俺」と言う場合もあるし、そして、とくには
このブログでもそうだけど、通常は
「ぼく」と言っている。

ぼくがなぜ、塾にて、じぶん自身を
「先生」と言わないのか?!
というのは、ぼくは、じぶん自身のことを
「先生」だと思っていないからだと思っている。
教育について素人のぼくは、ただただ
会社から雇っていただいただけの人間であり、
それだけでは、ぼく自身は
「先生」にはなり得ない、と考える。
かと言って、でも、生徒さんのほうから
「先生」と呼ばれることに対しては、
便宜上、もしくは、塾のシステム的に
そう呼ばれるものだと思いながら、
受け入れなければならない、とも思っている。
つまりはさ、教室にて、ぼくのことを
「先生」と呼ばないで、と言ったら、
生徒さんたちも混乱してしまうだろうから。

そして、ぼくが、ぼく自身の一人称を
「先生」と呼ばないのには、
もうひとつ理由があると考えていて。
それは、ぼくとしては、
生徒と先生の関係って、生徒と先生の
「二者面談」では無いと思っている。
ならば、なにかと言うならば、
生徒と先生と、及び、その先生の先生との
「三者面談」なのだと考えている。

生徒さんたちへ勉強を教える際、ぼくはよく
「昔、ぼくが先生から教えてもらったのは、」
ということばを言うようにしているですが。
つまり、先生の立場であるぼくにも
かつて教えていただいた「先生」がいて、
その先生より教えてもらったことを、
目の前に居る生徒さんへ伝えているだけである。
言い替えれば、ぼくは、生徒さんと
ぼく自身の先生とを繋げる
「橋渡し」の役なのだとも感じているの。
それをね、わるい言い方で言うならば
「受け売り」なのだとも思うけれども。

塾講師として勤めるぼくには、
それ以下でも、それ以上でも、無い、
と申しますか、いわば、
そこまでの価値も無い、
と、ぼくは思っているし、
それで、良い、とも思っている。

そして、ご自身の一人称のことを
「先生」と呼ばれる先生方は、
すごいなあ! と存じております。
おそらく、かつて、先生の先生より教わったことを
受け売りではなく、ご自身のことばへと昇華されて
伝えようとなされている、というのは、
ぼくにはぜんぜんできてないことだから。
それはやはり、その方は、本当の意味での
「先生」なのだなあ、と存じあげます。

そう考えてみるとね、ぼくは、
この仕事、向いてないよなあ。
とも思ったりもするのよね。。。

令和6年12月24日