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「新しい戦前」についてあらためて考える八月。

昨年末、タモリさんが出演なさいました
『徹子の部屋』で、黒柳徹子さんより
「来年はどんな年になりますかね?」
と尋ねられたタモリさんは、すこし考えられながら
「誰も予測できないですよね、これはねえ。」
とおっしゃってから、さらに、
「でも、なんて言うかなあ、
 新しい戦前になるんじゃあないですかね。」
って言われていたのが、とっても印象的で、
そしてその後、元日のぼくのブログの中でもこの
タモリさんのことばのことを記していたのですが。
それからもね、たびたび、このとき
タモリさんがおっしゃっていた
「新しい戦前」のことを考えているの。

冬だった昨年末より季節は巡り、
真夏となった八月の今、
じぶんなりに思うのはね、
「新しい戦前」とは、ただ単に
これから戦争が始まってゆく、
という意味では無いと考える。

昨日のブログの中でね、ぼくは
「『戦前』という言葉も、もしも
戦争が起きなかったとすれば、その日々は
『戦前』でもなく、」
とも記したのですが、たとえば、
戦前のころの日々のことを、
当時の人々は、おそらく、その今を
「戦前」とは呼んでいなかった、と、想像するの。
つまり、「戦前」という名称は、
戦争が終わって、戦争後の時代のことを
「戦後」と名付けられてから、その
「戦後」と比較するかのようにして、
「戦前」と言われるようになったのではないかなあ。
いや、想像が間違っていたらごめんなさい。

でも、もし仮に、
この仮説から考えてみるともすれば、
もしもこれから戦争が起きるのだとしても、
戦争が起きる前のときには、その日々のことを
「戦前」と呼ぶことができない。

そこから逆算するとしたら、たとえば、
タモリさんのおっしゃるような
「新しい戦前」とのようにして、
前もって名付けてしまうことによって、
これから起きるはずだった戦争を、
出し抜くことできる、と申しますか。
つまり、その、なにかについて
もっと考えることができる、と思うのね。

また、「新しい戦前」とは、
戦前は戦前なのだとしても、
「『新しい』戦前」なのだから、
いわゆる戦前ではない。
この「新しい」ということばが、
どういうことを意味しているかは、
ぼくにはわからないんですが、そこに
なにかしらの希望を抱くことはできないものかなあ?

たとえば、敗戦によって
日本人は、あまりにも大き過ぎる
トラウマのようなものを抱えてしまった、そして、その
トラウマのようなものは、戦後から
三十年以上経ってから生まれたぼくら世代にも、
抱えられているし、且つ、その後、及び、
これから生まれ来る子どもたちも、
抱えてしまう類のものなのやもしらない。

「新しい戦前」という状態とは、
このトラウマのようなものが、
無くなる、ということを
示唆されているやもしらない。

つまりはさ、言い換えるならば
「新しい戦前」とは、実際的に
戦争が起きる、とか、もしくは、
戦争を起こす、とかではなくて、
全ての日本人が抱えられる「トラウマ」との戦い、
という時代が始まる、つまり、
戦争という方法とは全く違う戦い方によって、
新しい時代がスタートしてゆく、
という意味なのやもしれない。

時代は巡り、そして、
時代が変わってゆく。

その時代と時代のはざまで、
ぼくはどう生きるか?
のようなことを考える真夏の八月の今。。。

令和5年8月2日