見出し画像

反面教師に成れたのならば。

今だっても、そこまでの
変化も無いやもと思うけれども、
若いころ、つまりはさ、
10代とか20代とかのころのじぶんというのは、
非道い人間だった、と思っている。
そのじぶん自身の非道さとは、
ここでは詳細も記さないけど、
たとえば、そのときのじぶんに対して、
諭したい、とか、説教したい、とか、
そういうのはあんまり無いけど、
そうしたとしても、じぶんは
ほとんど聞かなそうでもあるし、
というぐらいに、非道い、というか。
そのときのことを思い出すと、やっぱり、
つらくなってくるし、そしてまた、
かなしくもなってくる。

とあるころ、それはたしか、
20代終盤ごろだったと思うけれど、
そういうような、これまでの
じぶん自身を振り返りながら、
そういう非道いじぶんを、
どうにかしたい、とは思いながらも、もう、
どうしようもないんじゃあなかろうか?!
とも思い、それで、考えついたことは、
こんなにも非道いぼくが、世界中の人たちの
「反面教師」に成れたのならば、
世界は平和に成るんじゃあないか????
って思ったんだった。

とは言えども、このぼくでは、
世界中の人たちの
「反面教師」にすら成れないんだから。
つまり、それさえも、
ぼくの思い上がりなのだった。

そんな思い上がるような、且つ、
どうしようもないようなじぶんのことを、
あきらめないといけない、
と思ったときに、ぼくは
おとなに成った、とも言えるやもしらない。

でも、それをね、ぼく自身が、
ちゃんとあきらめられたとしても、
ぼくは、ぼくのままで、つまり、
どうしようもないままなんだから、
しょうもない。

「おとな」というのは、つまり、
そんな、しょうもない日々を、
過ごしてゆくことなのかもしらないな。

令和5年3月18日