じぶんの「変化」のこと。
きのうのnoteでは、吉本隆明さんの講演『いまの社会と言葉』を聴いて思ったことを申しあげましたが。
この講演のなかで吉本さんおっしゃっていた「言葉の変化」についてのこと、つまり「言葉」とは、一日一日で見れば変化ないように感じられるが、数年・数十年・数百年のスパンで見てゆくと変化が見えてくる。
という。。。
これはたとえば「言葉」だけに限らないで、「じぶん自身」の変化、みたいなのにも言えるのかもしれないなあ???
ってのを、きのうのnoteでは申しまして。
この「じぶん自身」の変化、とゆうのもさ。たとえば、これを「じぶん自身」の「成長」って言うだけでは足りないとおもったのね。
このごろぼくがよく考えるのは、じぶん自身が日々、どれだけ劣化しているのか?! とか。じぶん自身が、どれだけダメになって行ってしまっているのか?! とか。そういうのを、よくよく考える。
よくもなれば、それと同時に、なにかのぶぶんがわるくなっている。
そういうのをなるべく日々で点検するようにしながらじぶんを見て行ってないと、知らないあいだにじぶんがどこか思いもよらぬ地点に立っている可能性、ってゆうのもあるとおもっておって。
だからこそ、たとえば、「きのうのじぶん」と「きょうのじぶん」とがどれだけ変化してしまったんか???? を、これはあまりにも微細すぎてぜんぜんわからないかもだけれども、それを見ようとする。的な。
あとは、たぶん、「じぶんがどういうふうになりたいか?」ってゆうような、つまり「灯台」のようなのを考えながら、そこへどれだけ、たとえ1ミリだけでも近づけているか。それとも、遠ざかっているか。を、じぶん自身で見てみる。みたいな。。。
吉本さんが講演でおっしゃっていた「言葉」のこととは、だいぶかけ離れてしまって恐縮なんですが。
そういうのは、じぶんでおもっている〜。
平成30年11月1日