ブックレビュー「スタンフォードの心理学授業 ハートフルネス」
(通常ブックレビューは私のプライベートnoteであるKeith Kakehashi名義に掲載していますが、本レビューはHIRAKUコンサルタンシーサービシズの業務にも関連しますので重複して掲載しました。)
今年の10月14日に開催された第一回フォーラム’南総学舎’でお会いしたのがこの本の著者のスティーヴン・マーフィ重松氏だ。
フォーラム二日目には彼の「ハートフルネスと新しい生き方」というランドテーブルディスカッションがあり、彼の導きの下、彼の提唱するハートフルネスを実感することができた。
一日目の夜にはスティーヴを含む有志による音楽祭があり、私も急造バンドのギターとマンドリンを務め、こちらも盛り上がりを見せた。
スティーヴはスタンフォード大学でマインドフルネス&ハートフルラーニングの教鞭をとっている日系アメリカ人だ。
1. ハートフルネスとは
ハートフルネスという言葉は馴染みが無くても、マインドフルネスを知っている人は多いだろう。マインドフルネスとは「日々の心配事や不安な気持ち、仕事や他人からの評価など、つい頭に浮かんでしまうことを鎮め、「今」だけに集中できるような精神状態を意識的に作っていく」ことをいい、瞑想がその手法の一つ。
Google社などの欧米企業では、マインドフルネスの独自プログラムを開発、実践しており、ストレスマネジメントやセルフマネジメントなどの目的で積極的に用いられている。以前Salesforceのオフィスにお邪魔した際に、マインドフルネスの専用ルームが設置されていたことを覚えている。
それではスティーヴが提唱するハートフルネスはマインドフルネスと何が違うのだろうか。一言で言うとハートフルネスはマインドフルネスを基礎としながらも、さらに開かれたハートを持ち、自分だけでなくすべてに思いやりと責任を持つという考え方だ。
ハートフルネスは「思いやりに満ちた心」であり、「多様なスピリチュアリティの智慧の上に成り立って」いる、という。禅の修行者には、マインドフルネスには精神性が不在であると批判する人がいる。もっともマインドフルネスの実践者にも、禅が一般人の現実から遊離しているという意見もある。
またスティーブによるとマインドフルネスやヨガの世界は米国では白人中心で、その人たちにとっては人種や性差別を超越しているという意識があったが、現実には人種差別や性差別で苦しんでいる人たちがいて、それを無視する可能性をはらんでいる、と指摘している。彼自身日系人として白人中心の社会での人種差別を身をもって体現してきたのだろう。
このためハートフルネスは、人の多様性に対する意識と理解を含めていく道、であり、また「内なる沈黙と静けさによって、開かれたハートを育てること、自分とすべての存在に対してより人間らしく、思いやり深く、責任を持てるようになること」であり、マインドフルネスに多様性をもたらし、マインドフルネスを誰にも参加できるものにする働きをしていける、という。
一般的には、マインドフルネスは瞑想の行いから自己中心の印象を与えるが、そうした内面的な取り組みは、さらに「私」から「私たち」へと移行し、他者に対する関心を広げ、より多くを受け入れる輪になっていくべき、だと主張する。
特にマインドフルネスについて科学的側面に重点が置かれると利益追求の功利主義に傾き、また楽しみや悦びを求め、ストレスを減らし、現実の関わりを避けるような個人的な幸福追求の一種とみなされがちだ、と指摘する。
ハートフルネスはマインドフルネスをVulnerability(開かれた弱さ、傷つきやすさ)とCompassion(思いやり、ともに感じること)により小さな自我を超えた大いなるものにつなげることで、目的を見出し、周囲の世界に参加し共振することができるという。ハート=日本語の「こころ」は自分の脳や自我がつくり所有する心ではなく、周囲の世界と呼応するオープンや目覚めた意識を意味する。
2. ハートネスな生き方を育てる8つの柱
本書は「ハートフルネス」な生き方を育てる8つの柱として次のものを重視しており、本書の章立てもこれに従っている。
本書ではこの8つの柱を一つ一つ彼の個人的エピソードを絡めながら深堀していく。各エピソードには彼の両親や祖父母との異文化経験、祖母から学んだ日本の文化、米国で経験した人種的差別や疎外感が満ちている。
これらのエピソード経験は彼の考える「ハートフルネス」には不可欠のものだ。「深く聴くこと」、「受容」、「感謝」、「奉仕」といった要素は祖母から学んだ日本独特の文化から抽出されたもので、そこには「一期一会」、「もののあわれ」、「わび・さび」日本人になじみ深い概念が根底に流れている。
また日本で使われる漢字の構成要素から多くの意味があることを示唆している。たとえば「忙」は左が心で右が死。「思考や行為でいっぱいになってこの瞬間に心がないとき、私たちは真に生きていない」と著者は祖母から学んでいる。「暇と退屈の倫理学」でいう退屈の第一形式と第三形式を彷彿とさせる。
死と心を象徴する「忘」は自分自身がつながりのある人間関係、先祖の存在を忘れたとき、霊的な死に瀕するという意味がある。偶然ではあるが、これは國分功一郎が「目的への抵抗」で紹介したジョルジョ・アガンベンの「生の経験の単一性」に対する警鐘の理由そのものだ。
「受容」について、スティーブは日米差を困難なものだと指摘する。彼が育ったアメリカでは行動や変化が重んじらえるのに対して、日本文化は受容を認める。どちらが良いかでは無く、これらをバランスをとって選択することが生きる工夫だという。
3. 本書から何を学ぶか
スティーブは自らの人生で経験したエピソードからの学びを惜しげもなく読者に共有する。それらの経験は必ずしも読者が同じレベルで感じられるものではないかもしれない。しかしそれを憂う必要は無い。本当に大切なのは、読者自体が彼と同じようなVulnerabilityとCompassionを自らの経験の中で発揮できることなのだから。