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好きな人や物が多過ぎて見放されてしまいそうだ

このnote書くのに約2週間かかったポンコツです。こんばんは。

最近Twitterやその他のSNSを見る時間がものすごく減った。Twitterに関して言うと、表層的な要因は仕様の改悪。「悪」だと思ってるからこそ私は未だにTwitterと呼ぶ。

自分の気の合う仲間や、同じものを愛する人たちのちょっとした呟きだけに埋め尽くされたタイムラインは非常に居心地が良いもの。
特に私は世間では所謂マイノリティなものを好きになることが多いから、同じ音楽を聴いたり、同じライブを観た人たちの感想を見て、「そうそう!わかる!」と共感を覚えたり、時には逆の感情を持つこともあるが、それでも家族や同僚に話しても全く通じない言語で話せる世界線があることが嬉しいことだった。

時間は流れ、世の中は目紛しく変わり、SNSはもはや1人のただの一般人が世論をざわつかせる(動かせると錯覚させる)ほどの影響力を持ち、気づけばTwitterは実業家に買収されていて、仕様も日に日に変わり、ついには青い鳥もいなくなった。

現れたおすすめフィードに溢れているのは、目も当てられない、他人や、他人の好きなものへの激しい嫌悪。どうしてそんなに憤れるのだろうかと思うほどの価値観の異なる他人への攻撃。学級会的な不毛なエアリプ合戦。Twitterが使えなくなるかも?みたいな時に一応登録してみたThreadsをたまたま開いてみた時は卒倒した。地獄だった。

私は全く善人じゃなくて普通に怒るしムカつくし、嫌いな人なんていくらでもいるし、つい先日も友人から「(特定の話題になると)口が悪い!」と怒られた、そこら辺によくいる人ですけども。

でもなぁ。全く知らない赤の他人に自ら関与しに行くエネルギーや時間はリアルにない。というか、使いたくない。それは仕事や家事が忙しいからとかではなく、好きなものを追う時間すら足りないからなんだと思う。好きなものを享受しきれないってそれはそれでストレスなんだよな(贅沢)

限られた時間、エネルギーは好きなことに使いたい。音楽、ダンス、仕事(たまに嫌いだがサラリーマン故)、家族、街、Football、旅...

何度か、自分の好きなものを世の中に発信しようと試みたことがある。が、基本的に途中で面倒になってやめた。共通言語がある友達同士で飲みながら話す方が楽だし、楽しいから。

けど、やっぱり文字で残しておきたいと思わされる出来事が、特にこの1年の間に何度もあった。
もし明日この世から消えることになったら、私がどんな音楽が好きで、どんな表現者が好きで、なんで札幌が好きで、どうしてコンサドーレが好きなのか、同じ熱量で語ってくれる人はいない、というか、そもそも人にそれを期待するのは違うよな。

そんな考えのもと、私にとってのNow testamentとしてこのnoteを書いていきます。

まだ元気だった4/27の試合前

🎵月に負け犬



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