ニコラ・ド・スタール展 / パリ市立近代美術館@パリ(フランス)
変わり映えのない生活に退屈し、ファム・ファタルに導かれ南仏へ逃避行するも裏切られ、自分で巻き付けた爆弾によって美しいアンティーブの海の塵となる… 近現代の芸術へのオマージュで溢れた、ジャン=リュック・ゴダールの名作「気狂いピエロ」。主人公フェルディナンのモデルはニコラ・ド・スタールというフランス20世紀絵画の巨匠なのだという。そして彼の回顧展が大好きなパリ市立近代美術館でちょうど行われるらしい。そう聞けば足を運ばないわけにはいかない。
芸術、愛、成功、不安に象られた人生
フェルディナンのように、ニコラドスタールも成功に安住することができず、愛と芸術を求め、翻弄されて、光に溢れた南仏で命を絶った。
南仏はモネやゴッホ、マティスやシャガールなど多くの芸術家にインスピレーションを与えてきたことはよく知られるが、強い光と海、その2つが混じり合う様子は恐ろしいまでに美しいと思う。これが美の極地であって、これ以上はどこにもいけない、という刹那的な悦楽と絶望を感じるのかもしれない。
そんな美しい海に身を投げるに至るまでに、彼は苦難の時を経て成功を手にしつつも、愛と不安に翻弄される人生を送った。
彼はサンクトペテルブルクに貴族の子息として生まれるが、ロシア革命のためポーランドに亡命し、日が浅いうちに孤児となる。 姉妹とともにベルギーの上流階級の家庭に引き取られ、不自由のない教育を受ける。しかし、技師になるという養父の希望に反し、彼はブリュッセルの王立美術学院で絵を学ぶことを選んだ。
絵の修練のため各地を旅行する中で、1938年モロッコにてジャニーユ・ギユーという子のいる、画家である既婚女性と恋に落ち、アーティストの集まる南仏ニースで共同生活を送るようになる。仕事が苦しい中でも、二人は娘アンヌをもうけ幸せに暮らしていたそうだ。
第二次大戦下では、外人部隊に志願して従軍した後、ナチス占領下のパリに移住した。カンディンスキーらと個展も開催するが成果に結びつかず、家の扉やシーツを用いて絵を描くような日々を送ったという。さらにこの頃ジャニーヌが病気になるも、十分な治療を施すことができず1946年に亡くなってしまう。この出来事が、後に成功への強迫観念となり、彼を苦しめることとなる。
その後息子の英語教師をしていたフランソワーズと再婚し、1950年代に入ると半具象のスタイルを獲得し成熟期を迎え、個展を世界各地で開催するなど、仕事には成功の兆しが見られるようになる。一方で、彼は成功への強迫観念に囚われ、疲弊していく。アメリカ人画商ローゼンバーグから制作へのプレッシャーをかけられ、「私を工場と思わないでください」という悲痛な声を上げたというエピソードも。
プライベートでは、またも南仏で、またも子を持つ既婚女性ジャンヌ・マチューと熱烈な恋に落ち、移住する。晩年にはスタールは彼女の裸婦像を多く制作するなどインスピレーションを受けたが、彼女に家庭を捨てる気持ちはなく、この恋は成就することなく終わる。
そして全てに疲弊し切ったスタールは、1955年3月16日、自身のアトリエから身を投げ、41年の人生にピリオドを打つ。
ここで、彼の経歴を息を止めて読んでいたことに気づく。何にも安住することができず、芸術、愛、成功、不安が象った、なんと濃密で苦しい人生だったのかと感嘆の息を漏らしてしまう。
具象から抽象へ、また具象へ
どのアーティストも当初の作風は一般的に知られるそれとは異なるのが常だが、展覧会で多くの作品を見ることの面白さの1つは、そのスタイルの変遷を発見することだと思う。それが作者の人間味を強調するように思う。
ニコラドスタールは具象→抽象→(半)具象の過程を経たと言われるが、当初はこんなデッサンも制作していた。そして舞台はやはり南仏。
だんだん、色とフォルムで感情を表現する可能性を追求する、抽象的なスタイルに変わる。上述のように、この頃はカンディンスキーらとの共同展も開催している。
1950年頃から、モザイクにインスピレーションを受け、四角形を並べる表現を行うようになる。この色の重なりが制作過程を想像させ、他に類を見ない美しさに繋がっていると思う。個人的には、この頃の絵が一番好きだ。
そして1952年、有名なParc des Princesでのサッカー試合の絵が制作される。これは日没時のフランス対スウェーデンの白熱する試合の、選手の一瞬の躍動感を大胆に、そして抽象的に切り取ったものだ。躍動するスポーツと概念的な抽象画という似つかない2つが、スタールの手にかかれば、このように結びつくことができるのだ。
この頃から特にアメリカで名声を得て、大量の作品を制作しつつも疲弊していく。
Agrigenteとシチリアの都市名が冠された一連の作品はスタールの最も有名な作品で、彼が探し求めた表現の結晶だと言われる。
"On ne peint pas ce qu'on voit ou ce qu'on croit voir, on peint à mille vibrations le coup reçu." 「見えるものや見えたと思ったものを描きたいのではなく、そこで感じた衝撃、振動を表現したいのだ。」
いかに南欧が、彼にインスピレーションをもたらした場所だったのかがわかる。
晩年はより具象に傾き、船の浮かぶ南仏の海辺、日常の中の家の風景等を描いていたが、制作への焦りを感じるようで、対象への憧憬や情熱はあまり感じなかったように思う。
そして、亡くなる10日前、パリでシェーンベルク,ウェーベルンといったロシア音楽のコンサートを聴いたスタールは絶筆の作 "Le Concert" を描き始め、終えることなく命を絶った。この作品はアンティーブのピカソ美術館に展示されており、今回の展覧会では見ることができなかったのが残念である(MAMの力を以てしても借りることができなかったのはどんな理由があるのだろうか…?)。
おわりに
1人のアーティストを特集する企画展は珍しくないが、作品自体の印象が強く残るものと、劇的なアーティストの人生の印象がより強く残るものに分かれると思う。
この点、今回の展覧会は後者に当たるという印象を受けた。ニコラ・ド・スタールは生きるために描かずにはいられなかったが、彼を生かす芸術への重圧に飲み込まれてしまったのではないか(この点、ゴッホの姿が頭をよぎったものの、彼との比較については諸説あるようなのでここでは省略する。)。
私は彼の鮮烈な色合いの作品を見て、むしろ生への情熱を感じ取り、力を得た。他方で、これほど才能のあるアーティストでさえ、終わりがない成功への不安、愛への渇望から逃れられないのだ。それらは時代を超える普遍的な感情なのだと自分が肯定されるような気もした。
狂気と紙一重の強い芸術への執着から生まれた絵たちが、現代の鑑賞客の感情を動かし、不安から解放しているというのは彼の本望かもしれないし、皮肉なのかもしれない。
芸術鑑賞と情報収集
今回のニコラ・ド・スタール展の開催にあたっては、仏独合同のテレビ局Arteが特別番組を制作し、彼にとっていかに南仏が重要で象徴的な場所であったかを伝えていた。他にも、美術雑誌Beaux Artsが展覧会の全貌をコメント入りで解説するビデオを制作していた。このように様々な媒体を通じて反芻し、異なる角度からアートを考察することが好きだ。
一方で、私がこの展覧会に足を運ぶまでニコラ・ド・スタールについてあまり知らなかったように、(自身の教養不足は棚に上げ)情報を得るにあたって、言語や文化の壁がとても高いと感じる。デジタルの力で、印象派のような一部の有名な芸術に関する情報は非常にアクセスがしやすくなっている今の状況も、美術の専門教育を受けていない身としてその恩恵をたくさん受けてきた。しかし、未知の展覧会に足を運んでみたり、能動的に情報を集めてみないと広がらない世界はある。その国際的なバリアを下げるような試みがこれから多くなれば良いと思う。HiroshigeやHokusai以外の日本人アーティストがもっと知られる日が早く来ることを願って。
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