言語化、信仰心
背景
心はうつろいやすいもので、篤く信仰心が醸成されたと思いきや、軽いストレスなどで安易なリラックスを求め不毛で不生産的な時間を過ごして自堕落を踏み入れてしまう。そうすると罪悪感から神様との距離が出来てしまい、尚更と悪循環。なんとか礼拝に行くと、理屈抜きに一旦は距離が近づくが、また隙を見てサタンはストレスや安易なリラックスという形でやって来てる、、、、
繰り返すこの状況に自分の信仰心にいつまでも自信、確信が持てないでいる。周りの方々、若い子でさえちゃんと神を見据えて委ねて生きている。ファッションとか気休めではなく一丁目一番地として。本当に信じているから、当然の帰結としての振る舞い。それに引き換え自分は、、、
ただ、根拠は無いが方向は合っている確信はある。このようなVOUCな時代の絶対としてせめて子供にはその方向に促して行きたいとは考えているものの、僕の背中では語れていない。
40代、20年クリスチャンとして生きて、顕著な霊的成長なく、のらりくらりしてきて、現在地を言語化。as of jun 2024
1、なぜ信仰の確信がないか
個人的な直接的な霊的体験がない。一方で体験偏重はリアクションがないと廃れるというデメリットもあり求めるべきではないとも聞く。またもしかしたら体験しているのに、気づけていないという可能性もある。知覚が絶対でないことは周知。
そういう意味だと「復活を信じる」とは何か?盲信、思い込みでよいか?そもそも信じるとは何か。感覚?理性的判断?
ぼやっと復活はあったと思いながらも、心臓が止まって息もしなくなって、その後に動き出すという一つ一つを考えだすと想像を越える、実感が湧かない。多くの熱心なクリスチャンが同様の認識と思うが、このような状況でどう信じているのか?「仔細な説明ができる」とは違うはず。誰も説明できないはず。でもそれで2000年多くの人の拠り所になってきた。ということは言葉を選ばなければ盲信、思い込み。言い換えると…
信じるとは、今の手持ちカードで事実として認める事。理性のスタンス
これ。そもそも100%の事実なのであれば、信じる信じないという評価軸はない。事実なのでの一択。敢えて人が「信じる」と明言する理由はスタンスを明確化するということ。と考えると、確信がない僕は色々excuseしてスタンスがブレているということだ。要因は例のサタン、プライド、下手な理系知識、ロジック不足
スタンスを張れない理由
1、サタンーーーニワトリ卵。近づいては離れて。
2、プライド保全ーーー論破されたくない、一貫性を持ちたい故、奇跡やそういうことを腹落ちできていないから胸張ってスタンスを張れない。最初の7日、恐竜、進化、処女懐胎、奇跡、復活。むむむ、結構人の目を気にしている自分、、、
3、下手な理系知識ーーー事実積み上げで細事が万事的な古典物理還元論スタンスに反する故。逃げ道を残している。
4、ロジック不足ーーー自分にも他人にもなぜそのスタンスなのかを説明できない。これもこの言語化の理由。後述していく
有能なビジネスマンは限定的な情報でスタンスを張って、それに基づいて種々決断する。解決が不可能な細事にに囚われてスタンス張れていないのが今
2、ロジック
(1) How なんで僕は信じるスタンスをはりたいのか?
僕の学生時代はオウム事件があった。理系でもあったので強めの宗教拒否反応があった。またニーチェの新書をかじっていて、「人は自立すべきで自律した存在意義を持つべき」とか考えていた。でもそれはそもそも無理な話で、生まれる前に存在理由は語れないし、後天的な存在意義は自分が決めればただの自己中、思い込み。他人が決めるなら奴隷?また存在意義を持って生まれた人はむしろ、利用されるために産まれたとさえ言える。姉に臓器提供するために産まれた妹を描いた映画があったがまさにそれ。じゃあ存在意義はないのか?ただ産まれた?
仏教に詳しくはないけど、人生が空、無であるなら、一体何に向かって生きていくのか。もし娘が死にたいと言ったらどんな根拠で生の継続を説くのか?意味無しなんて言えないじゃないか。小津の墓には無と刻んであるらしいが、それが伝えたいこと?謙虚さ?無我の境地が目指すところ?
I believe no. 人生に不意に不幸があると、理由を求める。多分皆そう。飛行機だったり、天災だったり。理由を求めるのなぜか?無神論なら、物理法則で落ちた、揺れた、崩れただけ。でも、Howだけじゃなくて、Whyを求める。Ted talkのひとつ、優れたリーダーはwhat、Howではなく、Whyで行動を促す。
万人に備わっているこの感覚は、人間の本質に由来するものなのではと思えた。人間はそのように作られている。
人は本質的に理由whyを求める。
その理由を求める(人生の本質を求める)行動が信仰、、、ではないかと。科学はwhyに答えないし。
(2) How なんで僕はJesusを信じるスタンスをはりたいのか?
となると信じる対象、方向が重要になる。
初めて聖書を読み始めた時か、説教を聞いた時か、はたまた好きになった人から聞いたか、愛について、客観的に無感情に語られていることに驚いた。
愛だろ、愛。というアルコール飲料のCMが昔あったが、そんなカッコ良くもなく、情熱的でもなく。愛とは理性的で意識的な判断だったのだ。好きという揺らいでばかりの感情ではない。理性で、意識的に、愛を与える。jesus以外の愛で人生に信頼にたるものはあるか?身近で困難で、頼る価値があるもの。
愛っ何かて恥ずかしい、カッコ悪いものと思っていた。中高生時代。おどけてでないと言えない言葉。でも聖書で愛はゴリゴリにロジカルで、何か立ち向かうもの。
愛はどんな犠牲をはらっても誠実を尽くし、すべてを信じ、最善を期待し、すべてを耐え忍びます。 1コリント13:7
古いフランス映画「男と女」
「普通の生活だな」「愛があれば違うわ」
こんなに大変な人生を意味もなく、ただ産まれたからという理由で走り切る、走り続けるのは難しい。今はいい。でも今の与えられている恵みがあるからこその平静。
生きている間に使命見出せなかったとしても、見出そうとし続けたい。また2000年もの「時」の洗礼を受けてもまだ存在している。数十年しか生きていないものが何を否定できようか。
うしろへ引き戻そうとする力や、まとわりつく罪を振り捨てて、神の用意された競走を忍耐を持って走り抜こうではありませんか ヘブル12:1
確かに日の動きが止まったり、川が止まったり理解を越える記述は多々ある。だけれども、この世界や自分がいる奇跡に比べたら些細なことで、そこに囚われることに興味が湧かないのです。
、、、で、ここからが少し微妙。Jesus の愛について。今は深掘り不足
To be continued…
3、なりたい自分
ーーーAppreciate your comments for deeper consideration ーーー
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