「新しい歌」(信長貴富)にふれて
本日(2022/2/13)、ycjc3rdが無事に終演した。私が所属する湘南ユースクワイア(以下、syc)は、混声合唱組曲「新しい歌」を全曲演奏した。
私たちは、物事を「覚えている」ということが究極にはできないのだが、それでも、「記憶」が新しいうちに演奏を通して思ったことを書き留めておきたい。曲紹介とかは、それを書いているうちにもっと書き留めておきたいことを忘れてしまいそうだから省いてしまう。
前提として、私にはこの組曲を自分が納得できる見方をするには時間が足りなかった。ycjc3rdでの演奏は終わってしまったが、続いて書くことは決して結論ではなく、暫定的なものに過ぎない。
未練と心
生物学的には必ず死ぬ。そして私たちは生物学的に誕生するが、果たして我々の「生」が始まるのはその時点だろうか?私は日本人であり、日本の文化に馴染みがある。日本の文化というのは私が生まれるずっとずっと前から形成されてきた。それが私の内部にあるのだ。だから、私の人生は生物学的に誕生するずっとずっと前に始まっている。ならば、人は死なないのではないか。私の人生は直線的であり、起点と終点なぞ存在しないのではないか。
「新しい歌」は、終曲「一詩人の最後の歌」で、生物として死ぬ。しかし、「私」の生の終わりだとは思わない。その生は「魂」にも似る。何がそうさせるか。人が生物として死ぬことは悲しいことであってほしい。どんなにその人が憎いとしても、その憎しみから解放されることに悲しみが伴うだろう。どんなに満ち足りた人生を送ったとしても、未練の一つもない人生などあるのだろうか?
「生」が死ぬことはないが、ある地点でそこに特異な悲しみが発生する。その点が「一詩人の最後の歌」で歌われる「死」だ。
「私」には未練がある。彼の友人には切なさがある。それらは決して無視しようがないのだ。そして、それで十分なのだ。その瞬間は誰にでも訪れる。一詩人の最後の歌において、やはり人は必ず死ぬ。
「新しい歌」を歌うときには、この悲しみを忘れてはいけない。私は「私」の未練を右耳の緑色のピアスに込めた。
未練があったとしても、人は死ななくちゃいけない。どうやって?それは例えば、友人の切なさを歌にする。「鎮魂歌へのリクエスト」である。繰り返すが、未練も切なさも無いはずがない。「鎮魂歌」とは、その未練や切なさを断ち切るための、欺瞞に満ちた道具である。存分に悲しみたまえよ。
そして私は、その未練や切なさに近づきたかった。理由はない。歌うとはそういうことなのだろうか。左のピアスに、近づきたい「心」を預けた。未練という概念と心。からだは脱ぎ捨てた。
中心にせまる
「もろもろの物 もろもろの風 その中心にせまる歌だ」これは序曲「新しい歌」の一節だ。中心とはどこか。私はここで、「鎮魂歌へのリクエスト」と「一詩人の最後の歌」の方へ引っ張られてしまう。つまり、中心とは「生」である。人が生きている実感。3曲目「きみ歌えよ」までは、その実感を求めたい。決して抑圧されることなく、真っ直ぐに死へと向かう。それが生きる喜びだ。
文学は検閲に敗北するか?検閲が制限するのは所詮文学ではなく、一つ一つの字、つまり「からだ」である。文学の中身が空っぽなら、検閲に敗北するのも必然である。文学が「こころ」にたどり着いているなら、検閲の影響なぞ受けないだろう。それは表現の抑圧かもしれないが、思想(=「こころ」)の抑圧ではない。「こころ」は「からだ」がなくても一つになることができる。「からだ」なんてなければ、人々の「こころ」はもっと一つになることができるのだろうか。
ここで問題が発生する。歌は「からだ」なのだ。「こころ」が一つになっても、「からだ」である歌は後からやってくる。「からだ」の敗北は避けなければならない。「こころ」の一つになっていない「からだ」は虚弱だ。「こころ」を一つにしてから「からだ」を持つことで、その「からだ」つまり歌は強大な力を持つ。それが大事。
「嘘の涙は出てこない」とはどういうことか。これがよくわからない。だが、先に述べた「かなしみ」との関係はあるはずだ。本当の涙は出てくるのか。うーん、わからない。「ベートーヴェンもともだちさ」ベートーヴェンと友達になるためには、ベートーヴェンの「生」に出会うことご必要だ。ベートーヴェンは生きている。歴史は私たちをつくる。歴史であるベートーヴェンは、私たちの中に生きているのだ。そして、歌うことで、私たちの中に生きるベートーヴェンを思い出すことができる。「こころ」を一つにするために、「からだ」を持て、ということか。それでは先ほどの内容と矛盾する。ただ、何らかのエールであることは間違いないと思う。「からだ」を持つことを諦めてはならない。歌を歌うことは良きことなり。そう言っている。
「こころ」とは対照的に、「からだ」は抑圧されるし、やがて滅びる。本当の「生」は、「からだ」ではなく「こころ」にある。「からだ」は滅びるのだから、「こころ」はどうあるべきか。それを追究するのが、「中心にせまる」ということなのではないだろうか。
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