
「山下澄人によるラボ@京都」に参加した①
2月1日と2日に京都の瑞泉寺で行われた「山下澄人によるラボ」に参加した。
参加というか、京都でやって欲しくて、100000tアローントコのカジさんやありの文庫の木田さんや瑞泉寺の中川さんに相談をして、山下さんとラボのみなさんに相談をして、開催することができた。
京都は京都に住んでいない人たちからいろんなことを言われがちな街だけど、住んでいる人からは全然違うものが見えていたりする。自分も外から来て住み着いた側なので、よくわからないながらにも見えてきたものがあって、最初はものすごく驚いた。
気さくにとても親切にしてもらったり、ものすごいゆるさのイベントを意図的にやってたり、街の隙間を狙ってヌケ感のあるオモロいことなんかしようや、と企む楽しい大人たちに出会ったりした。
だから今回のラボの開催は京都の心強い人たちが一緒にやろうと言ってくれたので、安心して山下さんたちを迎えることができた。
山下さんやラボの制作チームのちさぞうさんやしらさこさんお茶のゆかさんも、繊細なものごとを大切にする気持ちで丁寧にじっくりとラボを運んでくるので、混ざり合ったら、だいぶいい感じに掘り炬燵が出来上がったみたいな感じのイベントになったと思う。
で、実際のラボだ。ラボってなんだ。これは本当にいつも、なんて言ったら伝わるかなあ?と考えていることで、うまく言えたためしがない。
なんのことやらわからないまま、やろうや、と言ってくれたカジさん中川さんに事前に説明したときは「前に出て、じっと座ってるだけなんですけど、丸裸にされていく感じなんですよ」と言った。
でも、それでも言い得ていない気がする。
大勢の人前に立つとき、私は人間が恐ろしすぎて、メガネもコンタクトレンズも外して前に出るので、目がほとんど見えていない。
視力が0.02とか0.03とかで乱視だから全体がボヤけて乱反射しているので、見えている世界はかなりサイケデリックだ。
1日目。
裸眼で前に出た。見えないまま、居る。隣に座った人の気配と私の周りにある気配だけが頼りだ。
ただそこに居ることに耐える。
見えていなくても人からの視線を感じているので、とてもこわい。
結局、見えていてもいなくても、こわいことに変わりはなかった。
前に出て、すわり、だまって、じっと、いる。
もう一人の人とそうしていると、気配が、うごく
「なんかしゃべってみて」
と山下さんが言う
「わたしは」
と言うので
「わたしは」と口に出してみるとわたしの中から言葉が続いて出てくる
「なにもわからない」
と言ったら、涙が出てきた。本当の気持ちだからだ。
「わたしはなにもわからない、わたしのこともあなたのことも、なにもかもわからない」
あとはなんて言ったのか忘れてしまった
「わたしの声も、わたしが聞いているこの声と、あなたが聞いているわたしの声はちがうし、わたしが聞いているわたしの声を、あなたは聞くことができない」
というようなことを口走ったような気がする。どれもいつも思っているわたしの本当の気持ちだった。
涙がツーツー流れながら、わたしは言っていた
人は本当のことを言うとき、泣いてしまうのはどうしてなのか。
「手をだして、見て、って言ってみて」
と山下さんが言う
急にとなりにいる人間に意識を向けたので
そのひとを、クワっと見て、手を出して、言った
「見て」
すごい形相で、言ったと思う
妙な迫力が出てしまっている気がした
自分の本当のことに触れている人間は、はからずとも迫力が出てしまうものだ
隣の人は、わたしの手を見た
「よく見て、なんかでてる」
「みえないです」
「よく見て」
山下さんに「おたがいによりかかると、だめ」みたいなことを言われた
たしかに、対話をしようとすると、気配が縮まる
「手で玉持って」
と山下さんが言う
左手に玉を持った。
隣の人が触る。
なんかしゃべる
「さわった指が、だんだん、あったかくなってくる」と山下さん
わたしはたぶんなにかしゃべっていた気がするけど忘れた
隣の人が、触った指をハッと見ているのが横目に見えたので
あ、うまいな〜と思いながら、笑ってしまいそうになるのをグッと噛み殺していた
わたし、そういうこと言いそうに見えてるんだな今な〜
とおもいながら、なにをくりだしていったらいいのか
考えないけど、感じている時間だった
いま振り返って考えてみると
どうして人間がこわいのだろう。
じぶんだって人間のくせに。
私はずっと、人間をこわがっている気がする。
人間である自分のこともこわいのかもしれない。
もしかしたら、人間の持っているちからがこわいのかもしれない。
見ることには、ちからがある
見られる側は、見ている側からの影響をうけている
どう見るか、ということが
見られている側に、影響する
このことはわたしの本業のヒーラーの在り方についてのところにも書いた
相手をどう見るか、次第で、相手の感じること、すること、言うこと、在り方が変わる
これは魔法だと思う
目に見えない力がはたらいている
なにを、どうみるか、という魔法を
わたしたちは日常的に使っている
無意識に、あたりまえのように
ほとんどの人が、意識せず、意図せず、使っている
山下さんは、ラボをしながら、ものすごい深い愛になって、見ている
世の中のどうでもいいことをついつい身につけてきてしまった人には
それを脱いでみてって言うし
とにかく、そのままのあなたでいなよ、あたりまえだけど、っていう目で見ている
そんで、なんかさ、そのままそこにいて、起きてくるものをつかんでみてよ
って感じで、話しかけてくる
ただいる、だけなんだけど、空っぽになってただ待つだけでもなくて
何かが起きようとしてくることを意図して、空っぽになってただ居ながらも
その起きそうな気配に身を任せるというか、その波がきたら、波が見えたら、見えなくても
いいからそのサーフボードに立て
みたいなこと。
うまく乗れたら楽しいよね。
っていうあそび。
なんだけど、わたしはバカで根が真面目だから
あそびだってことを、わすれちゃうよね、って思った。
つい真剣になり過ぎてしまうところがある。
力を抜かないと、波には立てないのに。
身がまえてしまうんだなって気がつく。
もっと、あそぼう。
人の前に出ても。
ふだんはもっと
ふざけてばかりいるんだし。
ヒーラーとして、ヒーリングするときの在り方と
山下さんのラボで、どう在るかっていうことは
ものすごく近いし、似ている
ていうか、アーティストってのは神の道具になることだから
自分を空っぽの管にして、差し出すことだから
ヒーラーもその類のことをする人だから
あたりまえなんだよな
いわゆる祈りの場に神楽殿があるのもそういうこと
舞とか芸能ってのは空っぽになって通り道になるためにやってる
そうやって、目に見えないちからのようなものを
見えたり聞こえたりするように
この場に降ろすってことだから
全ての人にはそういうことができるし
あたりまえにやってる
なんだけど
できないと思ってる人が多いのと
やれてるつもりになってる人が多いので
山下さんのラボはすごく本質的だし
みんな、なんでもない自分に、うまく還れて
それでさらに気持ちよくなったり
楽しくなったり
興奮したりする場になる
世界はこういうところから変わっていくと
わたしは思ってる