ヴィロンの森 第十章 約束
舞踏会の日から一月後、再び、森に行ける日がやってきました。
少女とオーギュストとアレクサンドルの三人で再び来ましたが、アレクサンドル以外の二人は、非常に浮かない顔をしていました。
少女にいたっては見慣れた、いつもの木々のアーチを見て、『ずっとこのアーチが続いてくれたらいいのに』と思っていました。
ラルフに会ったら、ヴィロンの人々が今年、この森から移動するのかどうかを聞かねばならない……
そう思うと、とても憂鬱で、今でも逃げ出したい気持ちでいっぱいでした。
そして、アーチを抜け、再びいつもと同じ光景ーー湖や湖の周りの木々、木々を照らす陽、動物達、ラルフがいつも笛を吹いている時に立つ切り株ーーを目にした瞬間、不安が一気に少女の胸の中に押し寄せてきました。
そんな中、不意に向こうから、こちらに駆(か)けてくるものが見えました。
「ククル!」
アレクサンドルが嬉しそうに叫んだその時、ククルがアレクサンドルに飛びついたので、少年は後ろに倒れながら抱きとめました。
「また会えたね、嬉しいよ」
少年がそう言うと、子犬は大きく尻尾を振りながら、少年の頬を舐(な)めます。
「あはは、くすぐったい」
「やぁ、皆」
ラルフが笛を手にしながら姿を現しました。
「また会えたね。とても嬉しいよ」
ニコニコしながらそう言います。
「……私達もよ」
少しの間の後、暗い顔つきで少女がそう言いました。
「どうかした?」
ラルフは少女の言葉の間と、浮かない顔に気づき、尋ねます。
「……ラルフ、聞きたい事があるんだ」
オーギュストが少しの間の後、切り出しました。
「何だい?」
「君達……つまり、ヴィロンの一族は、もうすぐこの森を出てしまうのかい?」
その言葉にラルフの顔が暗くなったように見えました。
「君たちは十年毎(ごと)に森から森へ移動するって聞いたんだ」
オーギュストがさらに言います。
「そうか。君達の所には物知りな博士がいたんだっけ」
ラルフはそう言うと、すぐ近くの切り株の上に座りました。
「……いかにも。僕達は今年の秋にローヌにある森に移動するよ」「そんな! ローヌといったら、だいぶ遠いわ!」
アリアンヌが悲しそうな声でそう言うと、
「秋と言ったら、もうあと三ヵ月くらいじゃないか!」
悲痛(ひつう)な声で、オーギュストも言いました。
「すまない……言おうとは思っていたのだけれど」
下を向いたまま、少年は言いました。
「もう会えなくなるってこと……?」
アリアンヌの目から涙があふれ出てきました。
「アリ、泣かないで」
慌ててラルフは立ち上がり、アリアンヌの手を取りました。
そして、オーギュストに顔を向け、
「オーギュスト、少し向こうでアリと話してきてもいいかな?」
と尋ねました。
「あぁ、アレクと一緒にいるよ」
オーギュストは、近くで子犬と遊んでいるアレクサンドルを見ながら、そう言いました。
「ありがとう。行こう、アリ」
そう言うと、少年はアリアンヌを連れて行きました。
少女は泣きながら、ラルフとともに、前に通ったヴィロンの国に続く、森の小道に入って行きました。
二人は、前と同じように薄暗い道をゆっくりと歩いていきます。ひんやりとした空気が辺りをつつみ、辺りでは虫の声が響いていました。
少女は涙をハンカチで拭いながら、少年に手を引かれ、歩いています。少年は心配そうに少女の様子を見ていました。
やがて、道が広くなり、前に白馬に乗ったところまで来ると、少年は口笛を吹きました。
しばらくして、白馬がすごい速さで走ってきて、二人の前まで来て止まると、少年は少女を抱きかかえ、横乗りにして馬に乗させ、それからその傍(かたわ)らに乗りました。
少年が手綱(たづな)を手繰(たぐ)り寄せた際、少女の顔のすぐ近くに少年の顔が来たので、少女は悲しいながらも、恋しさを感じました。
「少し走らせるよ。でも、ゆっくり行くから」
そう言うと、ラルフは馬を走らせました。
馬はゆっくりと森を駆けて行きますが、不思議なことに木や草花が自ら道を空けてくれるので、馬は止まることなく道を進んでいきます。
二人はずっと無言でした。
時折、木々の間から陽が差し込み、二人を照らします。
少女は、目を赤くしたまま、下を向いていました。
やがて、陽が大きく辺りを差し込んでいるところに来ると、ラルフは馬を止め、しばらくしてからやっと、口を開きました。
「……すまない、ずっと言おうと思っていたのだけど、言えなかった。その、言うのが怖くて」
少女は、うつむきながら少年の言葉を聞いています。
「言えば、本当になる気がしたから。でも、言うべきだった」
少女は顔をあげます。それから、ラルフをじっと見つめ、
「黙って行ってしまうところだったの?」
とかすれた声で言いました。
「そんな……! いや、そうだね……何も言わないまま、行こうかと思っていた」
「どうして?」
「だって、もう会えないって思って別れるより、会えるかもしれないと思っていた方がいいと思って」
「そんなの!」
少女はきっとした顔つきでラルフを見つめました。
「そんなの! 一生、分からないままでいるのよ? そんな辛(つら)いことはないわ」
「……そうだね」
ラルフは下を向きました。
そして、少しして顔をあげると、少女の手を取り、
「…….悪かったよ」
と言い、再び黙りました。
「離れたくない……」
しばらくの沈黙の後、少女はそう言いました。
「もう別れるのは嫌よ、お母様の時のような、あんな思いはもう……」
「アリ……」
アリアンヌの涙を指でそっと拭(ぬぐ)うと、少年はその頬に口づけをしました。
それから、少年は、思いを巡らすようにして頭上を見ました。その時、ちょうど風が吹いたので、木がさざめき、陽の光に照らされた葉が、辺りに舞い落ちました。
「アリ、うまく言えないけれど」
しばらくの間の後、少年は少女に顔を向け、声をかけました。
「僕らは、お互いを大切に思っているけれど、まだ子どもで、僕らだけでは何もできなくて。今は辛くても、きっと君はこれから色んな人に出会い、色んな楽しい思いを共有するから、だからどうか、別れを悲しまないで」
「でも……」
「分かってる」
そう言うと、ラルフは少女に口づけをしました。
そして、少女を見つめ、
「いつか大人になった時に、君は思い出すよ。この森での出来事を、素晴らしい日々を、僕との日々を。大切に思い合った日々を」
「ラルフ……嫌よ、私、ずっといたい、あなたと」
「僕だってそうさ」
ラルフは少女の手を取りました。
「僕にとって、君は、世界で一番大切な人だもの」
二人は抱きしめ合うと、そのままもう一度、口づけをしました。
陽の光が、先ほどよりも辺りを照らし、また風が吹いたので、より陽に染まった木の葉が、白馬と二人の周囲に舞い散りました。
口づけの後、二人はしばらく手を取り合いながら、じっと見つめ合っていました。丁度良い言葉を見つける事ができず、何も言葉を発せずにいたのです。
「僕は皆とこの森を離れなければいけないけど……どうか忘れないで、僕が君の事を大好きだという事を」
やっと一言、少年は口にすると、おもむろに自分の首からペンダントを外しました。そして少女の首にかけます。
「これ、あなたの大切な……」
「いいんだ」
「でも」
「おばあ様が、これをくださる時に言ってたんだ。いつか一番大切な人に渡しなさいって」
そう言うと、ラルフは少女に微笑みかけました。
「この森を僕らが去るまで、色んな思い出を作ろう、僕らが大人になった時に思い出して楽しくなるように。きっといつまでも忘れないよ、思い出はずっと残るから」
「嫌よ……」
言葉が詰まって、それ以上何も言えなくなり、アリアンヌがうつむくと、少年は少女をそっと抱きしめました。
そして、しばらくしてから何か思いついたのか、急に顔を輝かせてこう言いました。
「そうだ。いつか大人になった君に会いに行くよ。君と僕にしかわからない方法で、君に僕が会いに来た事を知らせるよ。ね、そうしたら素敵だろう? 君にとっても大人になるのが楽しみになるよ」
「本当?」
少女の顔がわずかに明るくなりました。
「本当さ。約束するよ。そうだなぁ、月の美しい夜に会いに行くよ。あの時二人で見たような」
「あの舞踏会の日に、バルコニーで見た月のような?」
「そうさ、素敵だろう?」
「素敵だわ……」
少年は微笑むと、少女の手を取りました。
「約束するよ。必ず会いに行くから」
「えぇ」
少女の目から再び涙があふれました。
二人はそのまま見つめ合い、再び言葉を発せずにいました。
やがて、少女が少し落ち着いてきたように見えたので、少年は、
「そろそろ戻っても大丈夫かな? オーギュストが心配するよ。それに僕たちはたくさん思い出を作らなきゃ」
と少女に切り出しました。
「大丈夫。戻りましょう」
少女がそう答えると、ラルフは馬をゆっくりと先ほど馬に乗った場所にまで走らせました。
二人は馬から降り、馬が去って行くのを見届けると、湖のところまで再び歩いて行きました。
小道から二人が出てくると、それを見たアレクサンドルがククルを抱きかかえ、走り寄ってきました。
「姉様! 湖に見た事のない魚が泳いでいるよ、お姉様も見て!」
そう言うと、少女の手を取り、引っ張ります。
少女は弟に手を引っ張られながら湖に向かいました。
その途中で振り向くと、ラルフは切り株の上に腰掛け、優しく微笑みながら、こちらを見ているのが見えました。
湖の手前では、オーギュストが地面に手をつき、湖の水の中を見ていました。アリアンヌが声をかけると、オーギュストは立ち上がり、二人に向き合います。
「お兄様、ラルフと話したわ」
「それで、どうなった?」
「それで、ラルフは後三か月後に行ってしまうけど、それまで、皆でたくさん思い出を作ろうって話したの」
「そうか」
兄はそれだけ言うと、少し微笑み、それから、
「湖の中を見てごらん」
と言いました。
見ると、湖面が陽光で輝きを増す中、色鮮やかな魚が水中で交わり、また離れたりしているのが見えました。
「お姉様! お兄様! こっちに来て!」
少し離れたところで湖に足をいれ、魚の群れを見ていたアレクサンドルが二人を呼びます。
二人も湖に足をいれ、弟の元に行くと、かかがみこんで湖の中をのぞきこみました。
小さな瑠璃色の魚達が群れをなして泳いでいて、オーギュストの周りを尾ひれを愛らしくくねらせながら、ぐるぐる泳いでいるのが見えました。
「可愛い!」
少女がそう言うと、弟はニコリとしました。
それから、三人は湖の水をかけあったりしました。
水しぶきが兄妹達の金髪を濡らし、陽の光が辺りを包みます。楽しそうに声をあげて遊んでいると、ふと三人は笛の音が鳴っていることに気づきました。
振り向くと、すぐそこの切り株のところに腰掛けて、ラルフが笛を吹いているのが見えました。
その音色は、今までになく楽し気なものなので、今日のような暖かな陽気の日にはとてもピッタリなもののように思われます。
しばらくして、すぐ近くにいた鳥達が一斉に旋律に合わせて鳴き始めました。
「見て!」
少女は湖面を見るなり、二人に呼びかけました。
見ると、色とりどりの魚たちがそれぞれ、ダンスをするかのように尾びれをくねらせて泳いでいるのが見えました。
「魚達が踊っているよ!」
オーギュストが驚いてそう言うと、さらに魚達が旋律に合わせて飛び跳ね始めました。
魚達が水面から跳び跳ねる度に、陽の光を浴びてきらきらと輝くので、
「綺麗……」
と思わず、アリアンヌが呟きました。
また、鳥達があまりに旋律と合うようにうまく鳴いているので
「鳥達も歌ってる……こんなの初めて見た……」
オーギュストがそう言いました。
「すごいや、ラルフ、すごいや!」
アレクサンドルがククルを抱えながらそう言います。
三人はしばらく、その光景に見とれていました。
音色が辺り一面に響き渡り、そして、やがて終わると鳥達も鳴き声をあげるのをやめました。魚達も何事もなかったかのように、悠々(ゆうゆう)と泳ぎ始めます。
けれども、三人はまだその場に立ち尽くしたまま呆然(ぼうぜん)としていました。
アリアンヌの頬に一筋、涙が伝っていきます。
「ねぇ、いつか、大きくなって、僕たちに子どもができて、そして、この光景の事を子ども達に話したら彼らは信じるかな?」
しばらくして、オーギュストがふと、そう言いました。
「……きっと信じるわ」
アリアンヌが呟くように答えます。
そして、
「きっとそうよ」
と言い、兄を見ました。
「……そうか」
オーギュストはにこりとし、そしてかがむと湖の水を手のひらですくいました。
手のひらの水は陽の光に輝いて、すぐに湖の中へこぼれ落ちていきました。
それから兄は少女を見ると、
「そうだな」
と言いました。
「お姉様のつけているペンダント、ラルフの?」
三人がようやく湖からあがる際、ふと、アレクサンドルがアリアンヌの胸元で光る赤い石に気づき、尋ねます。
「さっき、僕があげたんだ」
ラルフがアリアンヌが湖からあがるのを助けながら、代わりに答えました。
アリアンヌは少し頬を紅くしながら、ペンダントを左手で握りしめ、
「そうなの、もらったのよ」
と言うと、
「いいなぁ、僕も欲しい!」
とアレクサンドルが言ったので、三人はつい笑ってしまいました。
「アレクはこの間、女王様にショコラをもらったじゃないか」
兄がそう言いますが、
「お菓子じゃなくて、お姉様のつけているような、きらきらしたものが欲しいの!」
とアレクサンドルが駄々(だだ)をこね始めたので、
「お父様からいつかいただけるわよ」
とアリアンヌがなだめます。
「さぁ、まだ遊んでいたいけど、皆もうそろそろ帰らなければ」
ラルフがククルを抱き上げながらそう言うと、三人は少年に向かい合い、
「ラルフ、また近いうちに君に会いに行くよ。君達がこの森からいなくなるまでに、来れるだけ来るようにするよ」
「ククル、またね。ラルフもまたね」
「また近いうちにね」
と口々に言いました。
ラルフは笑顔になり、
「ありがとう、僕も女王様にお願いして、君達に出来るだけ会いに行けるようにするよ」
と答えました。
そして兄弟達は、先に木のアーチに向かって歩いて行きましたが、アリアンヌは、ラルフの元からすぐ去らずにいました。
そして、ペンダントを握ったままラルフの手を取り、
「ペンダント、ありがとう。一生大切にするわ。今日見た事も一生忘れない」
と言いました。
ラルフはうなずくとひざまずきました。
そして、少女の手の甲に口づけし、
「また近い内に、お姫様。まだまだ僕らは思い出を作っていくのだから」
と言ったので、少女は笑顔になりました。
そしてラルフが立ち上がったので、しばらく見つめ合うと、それから、兄弟達の元へ走って行きました。
(第十一章に続く)
【注 釈】
浮かない顔: 沈んだ顔つき憂鬱: 気持ちがふさいで晴れないこと
悲痛: 悲しくて心が痛むこと
傍ら: 近く。そば
手綱: 馬のくつわの左右に結びつけ、人が手にとって馬を操る綱
手繰り寄せる: 両手を交互に動かし、手元へ引き寄せる
かすれる: 声がよく出ないで、しわがれること
きっとした: 表情や態度などが厳しいさま
思いを巡らす: あれこれと心を働かせる
共有する: 一つのものを二人以上が関わって持つこと
悠々と: ゆったりと落ちついた様子
呆然とする: 意外なことに出会い、驚いている様子
駄々をこねる: 子どもが甘えて無理やワガママを言うこと
なだめる: 怒りなどをやわらげ静める