第42話 フラグ
ワンダは軍人であったが、ガナシアが、確かに熟練の医師だということが分かった。ガナシアの刃の進め方、そして血管を結紮していく糸さばきは、目にも止まらない速さであった。
「しかし…」
助手のゴルゴンは、それに比べてノロノロしているように見えた。脈をとったり記録したりすることは重要だが、ガナシアに糸を渡せと指示されてから、ワンテンポ遅れて手渡している。執刀医が助手に向ける手を見ると、わずかな苛立ちが垣間見えた。
「先生、手脈は触れません。わずかに首脈で触れます。」
「っ摘出!標本台用意!今から縫合に入る。糸と針を!」
「先生、止血剤を腹腔内に投与してください!」
「分かった。よし。」
手早く腹部を縫合し、更なる出血を防ごうと、ガナシアは腹部を圧迫した。
「先生、ダメです。首脈でも触れなくなりました。」
「…」
ワンダは、祈るような気持ちでクララを見つめていると、ふとクララが目を開き、ワンダに何かを言おうと唇が動いた。
「…」
ワンダは、『赤子を託された』と直感した。クララは静かに微笑み、そして目を閉じた。
「クララ!!」
ワンダはクララの手を取って、自分の額に当てた。
むせび泣いた。
これから幸せな家庭を築くはずだった、狭くも小ぎれいなワンダの家に、彼の嗚咽だけが響いていた。
ガナシアは、ワンダに語りかけた。
「…申し訳ない。手は尽くした。」
「…ありがとうございました。」
ワンダには、この医師が、懸命に手を尽くしたことが分かっていた。
ところが、
「ワンダさん、大変残念な結果です。とはいえ、お代金は頂きます。」
急にゴルゴン助手が、代金の支払いの時だけ、敬語を使い始めたことに腹立たしさを隠せなかった。ワンダは、立ち上がり用意していたお金を手渡そうとした。
「いや、赤子のこともあるし、何かと物入りだろう。」
「先生!何言っているんですか!?獣人にそんな情けは不要です!」
「ゴルゴン、黙りなさい。」
ワンダに一礼して、家を出たガナシアを、ゴルゴンは追いかけるように家を出たが、去り際に侮蔑を含んだ視線をワンダに投げつけ、激しく扉を閉めた。
ワンダはじっと玄関を見て、音を探った。
ワンダの聴力は優れていた。
すると、二人の会話が聞こえてきた。
「貴重なサンプルでしたね。」
「ゴルゴン。…あれは、本当に止血剤だったのですか。」
「先生、何をおっしゃいますか?当たり前です。最後に先生が止血剤を腹腔内にばらまかれたので手元に残ってはいませんが。」
「…」
「獣人とはいえ、どの程度の出血で脈が弱くなり死に至るかは、ほぼ人間と同様ですね。血液も採取しているので、すぐに解析して宮廷に報告しましょう。獣人のような下等な連中には科学的な管理が必要です。」
そう聞いたところで、ワンダは体の血液が沸騰するような感覚になり、家を飛び出した。
ただならぬ雰囲気を感じた二人は振り向いたところ、ワンダがゴルゴンに飛びつき押し倒した。
「クソ犬が!こんなことをしてどうなるか分かっているのか!?」
ゴルゴンは顔を歪め、唾を飛ばしながらワンダを罵った。
「やめないか!夜警を呼ぶぞ!」
ガナシアは、ワンダの肩に手を当て、ゴルゴンから引き離そうとした。
「サンプルとは何だ!?クララの血を返せ!お前たちの実験には使わせないぞ!」
ワンダがゴルゴンの襟首をつかむ。ゴルゴンは青ざめた。
しかし、いつものように陰険な目つきに変わり、急に大声を出した。
「助けてください!獣人が医者を襲っています!助けてください!」
ピーという笛の音がひやりとした夜風に乗った。
ワンダは逡巡した。
一思いにこの人間を殺そうと思ったが、クララの最後の微笑みを思い出してしまった。
この王都にあって獣人が人殺しをすれば、一族郎党皆殺しだ。赤子であっても、容赦なく殺される。そうすれば、クララとの約束を果たすことはできない。
ワンダは目を見開き、ゴルゴンを睨みつけた。そして、襟首をつかんだ手をほどいていった。
「何をしている!?」
夜警隊の駆け寄る音が徐々に近づいてくる。
「この獣が急に襲い掛かってきた!処刑しろ!」
ゴルゴンは夜警隊にわめいた。
「ゴルゴン!!」
ガナシアは、ゴルゴンを一喝した。
「私が患者を救いきれず、憤慨した家族と話をしていただけです。もう分かってもらえたようで、これから彼は家に帰る途中だったのです。」
「いえ、お医者様に獣人が手を挙げたとなれば、一大事です。詰所まで来て話を聞かせてください。」
「その必要はありません。さ、君は帰りなさい。」
「それは、お医者様とはいえ、越権行為です。」
ガナシアは、夜警隊をじっと見た。
「私はバルバ・ガナシアです。それ以上の詮索は、国王陛下のお怒りを買いますぞ。」
「バ…、失礼いたしました!」
夜警隊は、踵を返して走り去っていった。
「ワンダさん、申し訳ない。ここはおさめてください。」
ワンダはいろんな感情が混じり合った表情で、バルバに一礼し、その場を去った。
ゴルゴンはバルバに詰め寄った。
「先生、なぜ?」
「ゴルゴン、これは不問にします。」
「先生、私は先生の研究を思って働いただけです。」
バルバは、それには答えず足早に歩き出した。
ゴルゴンは、憎々しげにその様子を見ていた。
***
「医者を嫌いになった話は終わりだ。」
ワンダ軍曹は、天井に向けていた視線を俺に合わせた。
現代日本では、出産はめでたいことと決まっているが、つい100年前までは、今の100倍は妊産婦は出産で死んでいた。ましてや中世は、王妃でさえ、出産で死んだケースもある。
出産は命懸けであったのだ。
ワンダ軍曹の話を聞くに、クララさんは、癒着胎盤からの子宮摘出術を受けたということだろう。これは、現代日本でも難度の高い手術だと言える。しかも『輸血なし』とくれば、確実に母親は死ぬ。体重50㎏の人で2Lも出血すれば、だいたい心臓が止まる。『癒着胎盤の処置を輸血しながら行ったら、8L出血した手術になりました。』という症例報告もあるくらいだ。
こんな人権もへったくれもなさそうな時代に、産科救急で、単純子宮全摘出術に踏み切れる医者がいることに正直驚いた。手術に踏み込んで、しかもワンダ軍曹から見ても、手際がいいというのは、全く侮れないものだ。
患者がニセ医者を見抜く一般的な方法が方法が三つある。一つは『医師国家試験の面接試験の感想を聞く』、二つ目は『医師免許カード(・・)を持ってますかと聞く』、そして『単純子宮全摘出術は単純ですかと聞く』というものだ。単純子宮全摘出術を『簡単』と言ってしまう医者は、100%モグリと断言できるほど、奥深い手術であるのだ。
「しかし、そんな医者がこの世界にはいるんですね…」
「医者っていうのは、結局は偽善者で、偏見と虚栄心の塊だと思うのだ。」
「全くその通りです。」
ワンダが驚いた顔をする。
「…そうなのか?やはりお前は変わっているな。本当に医者か?医者っていうのは、たいていふんぞり返っているいるもんだぞ。」
日本でも、炎上商法で金儲けしか考えていない医者もいる。というか古今東西、医者は人徳者として描かれることもあれば、悪徳の権化として描かれること多い。医者は悪徳と結びつきやすいことを心に刻んで、常に精進しないといけないものなのだ。
しかし、それにしてもだ…
「そのゴルゴンという医者は、本当に腐り切っていますね。クララさんがあまりに可哀想です。」
「ゴルゴン…貴様だけは許さん!」
「えっ!?」
「うん?いや、だってそうだろう。あいつは、我々獣人の命を何とも思わない医者なんだから。」
いや、驚いたな。まさか「てつを」をここで聞けるとは。ワンダ軍曹、シビれたぜ。
俺が妙に潤んだ目をしていることに、ワンダ軍曹は困惑した。
「…とにかく、個人的に、私はゴルゴンを追いかけている。しかし、なぜか居場所を掴めないのだ。」
「…それも妙ですね。」
医者という仕事は、世間的には日の当たる仕事なので、探せば行きあたると思うのだが。
どこにいるか分からないなんて、崖の上の某国民的無免許外科医くらいだ。
「それにしても、不思議な日だ。こんなに昔話をしたことはない。」
ワンダ軍曹が一息ついた。
そして何か決意したような表情で俺を見た。
「もしも、仮の話だが、この偵察で…」
「ダメですよ。」
食い気味に、俺は話を遮った。
「そういうのを『フラグが立つ』って言うんです。」
「フラグ?」
「『戦争が終わったら結婚しよう』と言ったり、戦場で味方に微笑んだり、行軍中に誰も考えたこともない自慰行為を開発するとか、そういうことをやっちゃった奴は、戦争で死ぬんです。」
「そうなのか?というか、最後の奴は死んで当然だと思うが。」
「そんなもんなんです。『偵察を終え、軍本部に詳細を報告する』それだけの仕事なんですから、もしもの話は要らないです。」
「ハハハ。昼には、『おっかないから偵察に行きたくない』などと怯えていたのに、随分威勢がいいものだな。」
「本当に申し訳ありませんでした!」
「フフ。よし、交代の時間だ。ルッソに声をかけてくる。」
そうして、ワンダ軍曹はテントから出て行く。
満月なのか、ワンダ軍曹の月影は短く、背中が明るく見えた。