第66話「潮彩の僕たちは宛てのない道を歩く」
真夜中の電話で再び起こされた。今度は三回目のコールで出ると、聞き覚えのある声で相手が『もしもし』と言ってきた。二秒か三秒ほど考えた後、長谷川千夏の顔が浮かんだ。果たして声だけで、どちらの長谷川千夏なんだろうと思ったが、少し震えた声に四十三歳の長谷川千夏だと思った。だから僕は先生どうしたんですか?と聞き返した。
「ごめんね。こんな夜中に……」
僕は部屋にあった時計を見た。時刻は午前の三時過ぎだった。浅い眠りだったのか、急に起こされた割には頭はスッキリしていた。隣で寝ていた桃香も起き出すと、小声で千夏先生?と口にした。僕が頷くと、桃香はベッドから抜け出して、冷蔵庫からミネラルウォーターをコップに注いだ。
携帯電話を右耳から左耳へ移して、僕は千夏先生の言葉を待った。
水を受け渡す桃香の姿に、僕は気が散りそうだった。パンツ一枚で何も着ていない。小さな胸が迫ってくる。実際は桃香が近寄り、僕に水の入ったコップを渡してくれた。
一瞬にして安心した。それにしても相手が千夏先生とわかることに驚いたが……
「今、大丈夫かな?」
「ええ、大丈夫ですよ。あまり寝付けなかったので平気です」
「ホント、ありがとう」
千夏先生の声が変わった。その声に嬉しさと踊るようなリズム感があった。カサカサと音が聞こえた。何かしながら電話をしているのか、電話口の向こうから乾いた音が聞こえた。
そして、空気を圧縮するような音が続けて聞こえるのだった。
「昔から本の手触りが好きなの。だから保育園を辞めたあと、いろんな仕事を転々として今の図書館で働いてるの。海ちゃんは本とか好き?」
「正直、あんまり読まないけど、あそこの図書館の雰囲気は好きですよ」
「そう……」
「ええ、名前の通り、静寂すぎる空気が漂っているし心が落ち着きます」
「うん。だから、私も図書館は大好きよ」
「先生、今どこに居るんですか?家ですよね」
そんな風に言ったのは、妙な静けさを電話口から感じたからだ。すると、隣で寄り添う桃香が僕の腕を軽く叩いた。そして、千夏先生は図書館に居ると言った。図書館、しかもこんな時間に!?
桃香はきっと千夏先生の思考を読み取ったのだろう。桃香にとって何ら不思議じゃない。そんな表情をしていた。
だから僕は…
「先生、今図書館に居ますよね。今から行きますよ。だから待ってて下さい」
「えっ!?」
「必ず行くから……」
「うん。待ってる」
そして真夜中の電話を切った。僕がどうしてそんなことを言ったのか、桃香は聞こうともしなかった。
ただ一言、行ってらっしゃいと言うのだった。そう言ったあと、桃香は僕から離れて微笑んだ。僕はそんな桃香の頬にキスをそっと口付けて、出かける準備を始めた。
僕がどうして千夏先生の所へ行こうと思ったのか、正直なところ自分でもわからなかった。ただ一つだけ考えていたのは、寒さのある寂しさ。あの言葉だけが繰り返されていた。
服を着替え終わり、車のキーをジーパンの後ろポケットに詰め込んだ。僕は千夏先生の待つ、静寂すぎる図書館へ向かった。外に太陽の気配は一切なく、ただただ静かな暗闇が空を覆っていた。
第67話につづく
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