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第38話「黒電話とカレンダーの失意」

 台所で洗い物をするチャコ。テレビは夜のニュースを放送していた。ブラウン管の向こうでは都内で起きた殺人事件を、女性アナウンサーが悲痛な表情で内容を伝えていた。

 世の中では一人の人間が何の前触れもなく死んで、どこかで新しい生命が誕生してる。そんな偶然にも似た出来事が日々繰り返される。

 そんな日々の暮らしの中、僕は一人の女の子がブラウン管の前で寝ている姿を眺めて、どこか他人事みたいな顔をしていたんだ。命の大切さを重んじているはずなのに。

 彼女のことを、自分と繋がっている親子だと認識することができなかった。それは意識の問題かもしれないけど、現実味のある日常とはかけ離れていた。

「寝ちゃったね」とチャコが蛇口の水を止めてから呟いた。

「うん。子供ってどこでも寝ちゃうからな」

「きっと、知らない人の家だから疲れたのよ」

 知らない人の家は正解だけど、チャコの何気ない言葉に僕の心の芯を突き刺した。そんな鋭さのある痛みは胸を切り裂く。さっきは雫のことがうやむやになったけど、やっぱり二人で話し合わなければいけない問題だ。

 僕と血の繋がりがある雫の幸せを考えるのならば。

「一路くん、お願いがあるんだけど聞いてくれる?」チャコは台所からそう言うと腕時計を外した。

「少し飲み過ぎたかな。それにお酒飲んじゃったから車は運転できないわ。だから……」

 腕時計をダイニングテーブルに置いてチャコが居間に入って来ると、僕は無意識にギブスで固められた足を触ることになった。チャコが缶ビールを飲んでるときに気づいたら良かったんだけど、僕はそこまで頭が回らなくて、このまま帰すわけにはいかない状況なんだと、今さらになって気づくのだった。

「ああ、そっか。うっかりしてた」

「私から飲んでるんだから気にしないでよ。それでね、もし一路くんが良ければ、今晩だけ泊めて欲しいの」

 このときタクシーを呼ぶべきだったのか。車はアパートにおいて、タクシーで帰せば済む話だった。だけど、チャコから泊まりたいと言われたとき、僕はそんなことさえも忘れていた。

 タクシーを呼ぶことができた。朝方になってから気づくのだった。チャコが僕のアパートに泊まることによって、僕は姉さんとチャコが、三年前に起きた二人だけの出来事を知ることになるのだった。

 それを聞いたとき、霧子姉さんがどうして自殺したのか、答えに近づいたような気もしたんだ。姉さんとチャコだけが知る会話。それは決して、他人が聞いても気分の良いものじゃない。

 僕はその会話に関係していたし、それを聞いてから考えたのは、霧子姉さんに闇があったという真実だった。

 僕の知らない霧子姉さんの闇。それは真夜中にかかってきた、男の存在を思い出させる闇でもあった。

 夜更けといっても、僕たちが寝るには早すぎる時刻。テレビの前で眠ってしまった雫を抱えて、チャコが隣の寝室へと運んだ。僕は不自由な足でトイレへ行ってチャコの考えを思案した。おそらく彼女が泊まりたいと言った理由は、これからのことを話し合おうというわけだ。雫が眠るのを待っていたかもしれない。

 今後の僕たちの未来。いや、二人だけの問題でもなく、三人にとって幸せある選択を考える話し合いなんだろう。

 僕たちの幸せって…

 第39話につづく