第39話「真夜中の飛行船」
脇腹の辺りでグレーのスウェットがじんわりと赤黒く染まっていく。視線を下にすると、その様子が目に入ってきた。俺の頬に顔を寄せていた神木恵梨香が口許を緩めて、据わった目で視線を合わせた。
脇に刺さった包丁が視界の中で揺れている。神木恵梨香は、なんでいきなり俺を刺したんだ!?まさか、初めから刺すつもりで家に来たのか。いや、それは可能性として低い。俺が不動産へ行ったのはたまたまだったし、彼女は俺と初めて知り合ったはず……
「お前……マジか!?」と脇腹の痛みに耐えながら、絞り出すような声で口を開いた。
「痛いですか?諸星さん……痛みはあるんですね」
この状況のなか、神木恵梨香は冷静な口調で訊く。まるで刺したことを悪いと思っていないみたいだ。この女、もしかしてかなりヤバイ奴だったのか?いや、十分ヤバイ奴だと理解した。
そして目眩が襲って、俺は神木恵梨香から離れるようにしてフラついた。そのまま下半身を崩して、膝が床に落ちた。歪んだ顔で見上げると、神木恵梨香が手を真っ赤にして微笑んでいた。
その表情にゾッとしたが、だんだんと視界がボヤけていく。
俺はこんなことで死ぬのか……
目を覚ましたのは真夜中だった。瞼を開けると、自分の家の天井だと頭で理解した。どうやら俺は死んでいない。
起き上がって辺りを見渡すと、仕事場のデスクのライトが灯っていた。ライトに照らされて、神木恵梨香が熱心な顔して何か書類を見ているようだ。
そんな彼女を見て、怒りが沸騰するように滲んだ。俺はベッドから出て、彼女へ向かって叫び声を上げた!
「おい!お前、何やってんだよ。わかってんのか!?これは立派な殺人未遂だぞ」
「諸星さん、やっと起きたんですね。どうですか?」と神木恵梨香は俺の方を見るわけもなく、書類から目を離さずに答えた。
「すいません。突然、あんなことをしてしまって。疑ってたわけじゃないんですが、この目で確認したかったんです。確かに、諸星さんは死なない身体になってる。その証拠に刺された傷は治ってますよ」神木恵梨香はそう言って、書類からこっちへ顔を向けた。
「えっ、傷が治ってる!?」
神木恵梨香の言葉に、俺はスウェットをめくって脇腹に手を当てた。確かに刺された箇所に傷はなく、乾いて固まった血の跡だけが残っていた。何度も確認したが、傷どころか刺されたような跡さえ消えていたのだ。
「いよいよ、これは呪いの力と考えても良いですね。あの、勝手に書類を拝見させてもらってますが、どうやら鋭角さんは、屋根裏の荷物を処分という形で処理しています」と神木恵梨香は説明を始めた。
それよりも俺を刺したことや、この状況を楽しんでいる雰囲気に戸惑うばかりだ。
でも、その先の話が気になって無言で彼女の顔を見るしかなった。とにかく刺されはしたが、現実に俺は生きている。命に別状はないことは確かだった。
「君は、何が目的なの?」と神木恵梨香が何を考えているのか理解し難いので質問した。
「目的ですか……いえ、別に目的というのはありません。ただ興味があるか無いかです。この話は興味があって知りたいだけですが」
「そう……」と俺は彼女の淡々とした言葉に呆れた。
「あのさ、余計なことだけど、良い加減、パーカー着たら。なんでわざわざ脱ぐんだよ」とタンクトップ一枚の彼女へ、意味もなく言ってしまう。
この状況が馬鹿らしくもあったからだ。彼女と俺の温度差を余りにも感じた。
「ああ、そう言えば忘れてました。あのパーカーお気に入りなので、諸星さんの血が付いたら嫌なので脱いだだけですよ」
ホントにこの女は軽いと言うか、人の感情を無視して話す奴だ。目的が無いって言うけど本音はわからない。俺の身体を試すつもりで刺したりする奴だ、信用はしない方が良いだろう。
俺は頭を掻いて、深い溜息をしたあと、彼女へシャワーを浴びてくると言って、その場から歩き出した。血が付いたままじゃ気持ち悪い。それに、俺の頭の中も整理したかった。
風呂場へ行こうとすると、彼女が立ち上がって話しかけてきた。今度は何を言ってくるんだ。少し身構えて立ち止まると、彼女はゆっくりと近寄ってきた。
おいおい、また刺すんじゃねえだろうな!?ふとそんなことが頭によぎる。だが、このあと、彼女は驚きの行動に移すのだった。
第40話につづく
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