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第32話「黒電話とカレンダーの失意」
松葉杖で階段を上がるのは、見た目よりキツくて、チャコの肩を貸してもらう必要があった。一歩一歩ゆっくりと踏み外さないように上がる。肩に手を回したら、距離が一気に近寄り、僕たちは恋人同士の頃みたいにお互い歩み寄るのだった。その前で、雫が笑いながらチャコに向かって応援していた。
可愛らしい光景に自然と妙な感覚が芽生える。ひょっとして、父親の使命感が湧き上がったのか?
階段を上り終わると、チャコが自然な感じで手を握ってきた。なんだか松葉杖を使うのも躊躇してまう。握りしめた掌から、付き合ってた頃の体温がじんわりと伝わる。鍵を取り出して部屋の中へ入ると、出掛けたままの状態で部屋の中が静まり返っていた。
「雫、騒がないの。おばあちゃんの家と違うのよ」と部屋の中を駆けてく娘に対して、チャコは母親の顔になって注意した。
「別に大丈夫だよ。一階は誰も住んでないし、隣の人は仕事で居ないから」
僕は台所を通ってテレビのある部屋に入ると、松葉杖を壁に立てかけてカレンダーへ目を移した。
今月の赤い印はとうに過ぎている。だから黒電話が鳴ることはないだろう。さて、部屋に二人をあげたまでは良かったけど、この足じゃ移動するのも大変だった。せめてお茶ぐらい出そうと思ったのだが。
「ああ、一路くんは座ってて、私が用意するから」とチャコは台所に立って、食器棚の下を探そうとした。
「お茶っ葉なら上の棚だよ」
「あたいはジュース!」と雫が大きな声で言ってきた。
「ジュース?ジュースは無いな。下に自販機があるから…」
「もう、私が買ってくるわ。雫、静かに待ってなさいよ」チャコはそう言って、財布を持って出て行った。
階段を下りる音が聞こえて、僕と雫の二人っきりになった。僕は畳の上で正座する雫に視線を移すと、何となく見つめては雫と会話を試みようと咳払いした。
雫は何の反応を示すわけでもなく、畳を小さな手で触りながら天井へ視線を移した。
子供と接する機会がなかったので、こんなとき、何を話せば良いのかわからない。僕もつられるように天井を見上げては、沈黙の空間に漂う感じで黙っていた。
こんなとき平家だったら、子供をあやすなんて容易いんだろう。僕はまだまだ経験不足で欠けてるものが多かった。
「ただいま」とチャコが部屋に戻って来る。
チャコは自販機で買ったジュースのタブを開けると、雫に手渡して台所へ戻ってお茶の準備を始めた。ガサガサと台所で準備する音と雫が美味しそうな顔してジュースを飲む。
そんな状況に苦しくなり、普段は観ないテレビの電源をリモコンで押した。流れて来たのは昼間のワイドショー番組。世の中は同じ時間を同じように繰り返して、視聴者に情報を流していた。
僕もこんな風に、同じ時間を部屋で過ごしてばっかりだ。たまに来る仕事みたいなことを抜きにして、これと言って毎日を楽しく過ごしていなかった。
もしも僕とチャコが結婚して、この子(雫)と毎日を過ごす生活だったら、少しは違う人生を歩んでいたかもしれない。
「はいどうぞ」とチャコがお盆にお茶を二つ用意して、僕の前に置いた。
「ねえ、一路くんは仕事してるの?」とチャコがテーブルを挟んで座ると突然訊いてきた。
頭の中で今日までの過ごし方を考えていたから、チャコの質問に少しだけ身構えてしまう。別に頭の中の考えを覗かれたわけでもないのに。それでも答えにくいのは、今の仕事に対して仕事と思っていないところがあったからだ。
話せるようなことなのか、それとも話した方が良いのか?チャコの質問に、困った顔で黙ってしまう。するとチャコはお茶を啜ってから、コトンと湯呑みを静かに置いた。
「言いたくないなら良いよ」とチャコが口許を緩めて言う。
姉さんが亡くなってから、僕はある仕事についた。その仕事を始めて数ヶ月ほど経っている。今だにその仕事を理解してるつもりはない。何故なら、その仕事は姉さんから受け継いだ仕事でもあるから。
話せば長くなるかもしれないが、僕は今の仕事についた経緯を話そうと始めた。
それは今から三年前の夏、つまり姉さんが自殺してから数週間後の出来事だった。
第33話につづく