第38話「潮彩の僕たちは宛てのない道を歩く」
喫茶店で何時間過ごしたんだろう。僕は、一度も家に帰ることなかった。桃香のアパートへ寄ろうかと考えたが、それもやめて、山手線に乗り渋谷の街まで来ていた。
何をするのでもなく、雲間を歩く雲みたいにひたすら歩いた。心の遮断機が音を破壊して、無音の街が僕を飲み込んだ。
気になって、気になって仕方がなかった。昨日の僕と、今日の僕は何かが違う。使いづらいナイフとフォークで食事をするみたいだ。不意に僕の頭にそんな言葉が浮かぶ。
真実を知るには勇気ある一歩が必要なんだ。僕は頭と心を分けるように、時間が過ぎ去るのをひたすら待った。
太陽が沈んだ街に、乏しい灯りが一つの窓枠を照らしていた。小綺麗なアパートの外から、僕はその灯りを眺めていた。乏しい光に導かれるように一歩一歩と足を動かした。階段を上がり二階に着いたとき、立ち止まって振り返った。
そこには、何も存在していない空間しか見えなかった。今の僕は考えて考えて、ここに来た理由を振り返るには重すぎる選択だった。
真相を知っているのは、雛形朋美だけである。だからーーーー
「来ないかと思ったわ」と扉を開けた瞬間、雛形さんは言った。
上下のスウェットで、ラフな格好で出迎えてくれた。僕は軽く会釈をすると部屋の中へと入った。四角いテーブルとクッションが二つ置かれたシンプルな部屋。
レースのないカーテンに、部屋の隅には萎びた観葉植物があった。必要とする物以外、この部屋には存在しないんだと思った。
「海野くんも飲む?」とリビングと繋がるキッチンから、雛形さんが聞いてきた。
冗談か本気なのかわからない表情だった。もちろん、僕は首を横に振って断った。当たり前である。ましてや、そんな気持ちになれない。
雛形さんは残念そうにして、一人で飲むのか、缶ビールを片手に僕の向かい側へ座った。クラッカーが盛られた皿をテーブルに置くと、クラッカーを見て、僕の頭の片隅で朧げな光景が浮かんだ。
あれは確か、僕も齧っていたような。
「で、どこから覚えていないの?」と雛形さんは口元に笑みを浮かべながら言う。
「その前に、北城さんはどうしたんですか?」
「ああ彼女ね。彼女なら心配しないで全く覚えてなかったし、酔っ払って私の家に泊まったとしか思ってないわ。あのあと、服を着替えさせたりと大変だったけどね」
「すいません。雛形さんに迷惑をかけましたね」と彼女の話しにホッとする自分がいたけど、それ以上の言葉は続かなかった。
「迷惑だなんて、私は楽しかったわよ。それに、久しぶりだったし」
「えっ!?」
「フフ、そんな顔しないで、きちんと説明してあげるから。昨夜の出来事をね」雛形さんはそう言って、ビールを一口飲んで、クラッカーを音もさせず齧った。
一瞬、沈黙が流れてから、雛形さんは昨夜の出来事を話し始めた。その話しに、僕はただただ頷いていた。
これは慣れなんだと、雛形さんはそんな言葉で話し終えた。僕と雛形さんがこんな風に、部屋で二人っきりになるのも慣れなんだと。それは、雛形さんの考えであって、僕はそれについて納得できるほどの余裕はなかった。
だけど、どこかで納得する自分がいるとも思えた。
僕らはタイミングと、慣れというサイクルに乗ってしまったのだ。時間は昨夜のタクシーに乗り込んだ場面へと遡る。
僕たち三人が体験した出来事。それはあまりにも、あてのない道かもしれない。そんな風に思ったのは僕だけなのかなーーーー
タクシーがアパート前に着いたとき、僕は猛烈な眠気と戦っていた。風景が流れるように落ちていたのは、そのせいだった。かろうじてタクシーから降り立つと、同じく眠そうな北城さんがいた。
「肩を貸してくれる」と言う雛形さんの声に、僕は北城さんを支えようと歩み寄った。両脇から抱えるように、北城さんの肩を雛形さんと持つ。
「私のアパートに連れて行きましょう。お願いできるかしら」と雛形さんが言うので、僕は北城さんを支えるように肩を持って、アパートの階段を上がった。
扉を開けて部屋へ運び出す。すると、北城さんが急に目覚めて、ハイテンションな声で叫び始めた。
僕が静かにするよう注意すると、北城さんは二次会、二次会と連呼して言うのだった。全くこの細い身体で、どれだけ飲むんだと呆れた。
それでも、今夜の主役である北城さんに従うのだったーーーー
「それでそれで、それはどんな成人式なのよ」と雛形さんが興味津々に聞いたきた。
何の話しをしているのか、僕はクラッカーとビールの組み合わせを気に入って、彼女たちの話しを聞いてる振りして、その様子を眺めていた。
そんな、他愛ない会話が何時間続いたのだろう。その頃には、僕の思考は思考として失っていた。
「ねえ、海野くんも話しなさいよ。私と朋美さんだけ、話してばっかりじゃない。さっきからずっと言おう、言おうと思ってたけど、海野くんって、あんまり自分のことを話さないわよね」と北城さんが絡んできた。
「くだらないからさ。僕は友達もいないし、これまでも、ずっと目立たないように生きてきたんだ。そんな僕の人生を聞いたところで、面白いわけないだろう」
「そんなの聞かないと、わからないじゃん」と北城さんが前のめりになって言い返す。
「そうよ。私は今日で君のことを、前に比べたら興味を持ったわ」と雛形さんまで参戦して聞く始末だ。
「なんだよ。その言い方は棘があるよな。前は、どんなイメージをしてたんだよ」酒が入っていたので、僕の話し方もいささか荒れた口調に変わっていた。
「女慣れしてなくて、童貞な奴かなって思ってたけど」と雛形さんが缶ビールを片手に僕の横へ座った。
「童貞じゃないよ。そんなわけないだろう」と少し剥きになって言い返す。
「そうなの?だったら証明してよ。今から私とセックスして、それで判断してあげるわ」
一ヶ月前の僕だったら逃げていただろう。だけど、今の僕は違っていた。桃香とのセックスで、ずいぶんと慣れていた。セックスはセックスとして、それはそれで僕は僕で何も変わらない。
それでも今夜の僕は、僕と違っていたのだろうか。雛形朋美の挑戦的な態度にムカついて、セックスしようと言うのだった。子供がサッカーをしようと言うのとは違う。
僕らは大人の遊びをしようとしているのだ。それが、間違っているとか関係なかった。今の僕は思考さえも、僕じゃなかったから。
雛形朋美は、僕の言葉に躊躇することなく、シャワーを浴びてくると言って立ち上がった。
なんだよ。自分で誘っといて、しっかりシャワーは浴びるのかよ。僕は今すぐにも始めて良かったんだぜーーーーと思ったとき、向かい側に座る北城美鈴を見つめた。
彼女の黒目がちな瞳に、僕はどんな風に映っているのか。最低な男だと思っているのか。それとも酔っ払っているからわかっていない?
「何、何か言いたそうだね」と僕が訊くと、「あなたの声に覚えがあるの。あれは確か、私が見えない誰かに抱かれようとしていた」
「はあ!?もしかして、彼氏と勘違いしてんじゃないの!!」
僕の質問に、北城美鈴は何も答えなかった。ただ部屋の向こうで、シャワーの流れる音だけが聞こえていた。
そして、僕と北城美鈴の会話は途切れるのだった。
第39話につづく
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