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第68話「潮彩の僕たちは宛てのない道を歩く」

真っ暗な図書館の中、円卓のソファーの上で影は存在していた。存在感だけは決して無くならない。見えないかもしれないけど、そこに確かな影が二つ存在していた。誰でも見失うことを恐れている。傍にいてくれた人を失うということは、恐怖という気持ちで潰される感覚なんだ。

目を逸らしたら、胸に小さな引っ掻き傷ができるように。


手のひらに乗せた独楽(こま)が止まった時、そこには回転という存在がなくなった証。そんな光景にも似ている。二の腕を掴んだ手が離そうとしない場合、そこには不確かな二つの気持ちが存在していた。

人の気持ちを確かめるには、本質を知る必要がある。だけど、人の気持ちは自然界と同じで季節や時の流れによって移り変わる。誰にも一秒後の未来は想像できても、その通りに行くとは限らない。


ギターを演奏するギタリストだって一秒後に弦が切れるとは思わないだろう。つまり、未来はいつだって思わぬ出来事が待っていると言うことなんだ。掴んだままの手に千夏先生は包むよう手を重ねても、それは思わぬ出来事であって何ら不思議なことじゃない。

目が慣れるまで、傍を離れないでと言っていることと変わらないから。


「私は君に大人の災いを背負わせた。何故だと思う?」真っ暗な闇の中で先生が聞いて来た。


「それは、僕に大人の成人式を教えたって意味?」


「そうとも言えるし、そうとも言えない。言葉で伝えるのは難しい。私が大人の災いを背負っているとも言える。だけど、君もまた、大人の災いを背負わされた」


「でも、先生は言いましたよね。大人の災いは必ず降りかかると。だったら背負わされたの意味が違ってきます。それでも僕は背負わされたと言うんですか?僕は僕で、自分に降りかかる大人の災いは受けるつもりです。それに、僕はすでに受けているかもしれない。現に、僕は一人の女(ひと)を失っています。それは死という形で……」


「辛いことがあったのね。でも少し違う。それは大人の災いとは違うのよ。私が寒さのある寂しさを感じるのは、大人の災いと少し関係してるけど、君が失った人と大人の災いは直接的に関係していない。あくまでも運命だったのよ」


「運命は受け入れないと、だったら僕は」


次のセリフを言おうとした瞬間、真っ暗な空間に、闇に慣れた瞳から千夏先生の顔が浮かんだ。俯いていた顔を上げていた。そして、二の腕を掴んだ僕の顔を見つめていた。


見つめていた……


睫毛の長さがわかるぐらい顔を近づけた。千夏先生の瞳に、僕が映っていた。鏡の中に住んでいた僕とは違う。正真正銘の僕が、僕を見つめていた。この先のビジョンを想像しては、二の腕を掴んだ手に力が入る。

僕の告白を受け入れたと思って良いのだろうか?淡い桃色キャミソールが肌色に変わる過程さえ覚えていない。それは初めての経験と似ていたし、僕はきっと夢中だったと思う。


唇のワルツを華麗に踊る歳上の彼女。キャミソールを脱いで、二十歳の僕に裸体を露わにしたとき、そこには四十三歳の長谷川千夏が重なって寝転ぶ姿だった。彼女は僕を抱き寄せて、艶のある唇でワルツを踊った。

手と手を取り合い、僕らは舌と舌を取り合った。静寂すぎる図書館で、二人の吐息が天井まで響く。僕たちは誰にも邪魔されることなく最後まで行為をするのだった。


非常灯は最後まで灯ることなく、明け方が近づいていた。腕時計で時間を確認すると朝の四時過ぎだった。二時間ぐらい居たのだろうか。時間の感覚とかはなかった。とにかく彼女を無我夢中で抱いたことしか記憶にない。

背中を向けて、彼女はパンツに足を通した。その後ろ姿が堪らなく愛おしくて、キャミソールを着ようとした彼女の後ろから抱きしめた。


「まだしたいの?」と彼女が呟く。


「先生……」と僕は呼んだ。


「先生なんて呼ばないで、名前を呼んでちょうだい」


「千夏……」と彼女の名前を呼ぶ。


千夏先生から千夏と呼ばれた彼女は、静かに振り向くと唇を重ねてくれた。軽いキスから舌を絡ませる。萎れていた下半身が徐々に硬くなった。僕の手が自然と胸を触り、千夏の乳首に指先が触れた。

もう一回したいーーーーと口にする。すると千夏は僕に向かって呟いた。


「私が、君を待っていたこと知ってた?」


僕の手のひらが胸の表面でピタリと止まった。千夏がこれから話す物語に、僕は背負わされた大人の災いの意味を少しだけ知る事となる。僕らは宛てのない道を歩く代わりに、宛てのない道を選んだかもしれなかった。


それが僕と千夏の関係性だった。


第69話につづく