第44話「潮彩の僕たちは宛てのない道を歩く」
肌着一枚にパンツだけの姿で、美鈴が安らかな顔をして寝てる。当たり前だけど、僕の前から消えることはなかった。それでも心の中で、ホッと一息する僕がいた。
失うことの辛さを知っている人間と、知らない人間の差はなんだろう。差し引いても、その差は埋まることはないと思う。だけど、きっと痛みは想像できる。美鈴の寝顔が消えてなくならないように願った。
トーストの上で溶けるバターが染み込んだ頃、美鈴は髪の毛を整え始めた。のんきに朝食なんて、短大生にはなかった。僕みたいに意味もなく専門学校へ通っている人間とは違うーーーーだけど、美鈴は意味もなく文学部を選んでいるわけだが……
「海ちゃん、今日バイトだよね」
「うん、遅番だよ」とトーストを齧りながら答える。
「じゃあ、今夜はウチに来ないわね。私、授業が終わったら、友達とご飯食べに行くから」と肌着を脱いで水色のブラジャーで胸を包んだ。
「別に問題ないよ。僕のことは気にしないで、鍵閉めていつもの所へ置いとくよ」
そんな会話を交わしたあと、美鈴はさっさと着替えを済ませて、小さなテーブルに鍵を置いた。手際良く化粧に取り掛かり準備を進める。そんな様子を見ては、女という生き物は大変で面倒な支度があると、他人の目をしながら観察していた。
僕なら五分も掛からない。数分後、美鈴は短大生の格好へ変わり、部屋に僕だけを残して出かけてしまった。
そのあと、僕も出掛ける準備をして数分後に鍵を閉めて外へと繰り出すのだった。
バイトの前に用があったからだ。僕にしては珍しかったけど、確かめたいことがあった。桃香が偶然会った人。その人が働いている図書館へ行こうと考えていた。
保育園の恩師、千夏先生が働く図書館へ。先生がどうして図書館で働いているか知りたかった。僕が卒園してから辞めたのか、或いはしばらくしてから辞めたのか。
それと、一番確認したいことは、僕らに大人の成人式を教えてくれた理由。何故、隠れたルールを言わなかったのか?(これについては隠れたルールを知らなかった可能性があった)
吉祥寺駅から上野駅まで電車を乗り継ぎ、僕は上野公園に向かった。博物館を過ぎて、奥へ歩いて行くと目的の図書館があった。珍しい名前の図書館だったので、少し興味はあった。図書館の名前は『静寂すぎる図書館』。
僕は図書館を目の前にして、胸の鼓動を感じながら中へ入った。
心地良い風に包まれている感覚が、僕の肌へ通りすぎる。紅い絨毯が床へ敷かれて、澄んだ空気を漂わせて静寂な空間が流れていた。ここは外の世界と別世界が創られて、外の世界を完全にシャットアウトしていた。
これだけの静寂を、どうやって生み出すのか不思議だった。
館内の中心に、円卓の木目調のテーブルが置かれており、それを中心にして放射状に本棚は広がっていた。午前中の図書館は人が少なく、僕は本棚で本を探すふりして受付を覗いたーーー
果たして、千夏先生は居るのだろうか。あの頃と変わっていないと桃香は言っていた。だけど、あれから数十年と月日は過ぎている。
僕は二十歳となり、千夏先生はおそらく四十代と予想される。
そもそも、桃香が千夏先生と出会ったのは偶然だった。大学の課題で調べ物があった桃香は、大学教授の薦めで図書館に訪れた。そのとき、偶然にも受付をしていたの女性が千夏先生だったのだ。
偶然とは必然にも思えた。僕らが二十歳を迎えて、大人の成人式に参加したあと、出会うこと自体が必然にも思えた。
受付に一人の女性が座っていた。遠目から二十代とわかった。あの人は千夏先生ではない。それに、桃香の話しでは、あの頃と変わらないポニーテールだと。
今、受付に居る女性はショートカットだったので絶対に違う。僕はしばらく考えていたが、手っ取り早く受付の女性へ訊ねてみようと思った。
「あの、すいません。ちょっとお聞きしてもいいですか?」と僕は訊ねた。
ショートカットで睫毛の長い女性は顔を上げると、パソコンのキーボードから手を離して、「何か本をお探しでしょうか」と答えた。
僕は違いますと言ってから、千夏先生が居るかを聞こうとした。だけど、言葉が止まる。何故なら僕は千夏先生の名字さえも知らなかったのだから。
大体が保育園の頃、千夏先生は千夏先生であって、他の名前を呼ぶなんて幼い子供が考えるわけなかった。
「あの~、大丈夫ですか?」とショートカットの女性が心配そうに言う
「あっ、その、ちょっとした知り合いなんです。ここで働いている女性なんですが、千夏さんはいらっしゃいますか?」始めから名前で呼べば良かったと心の中で思った。案の定、ショートカットの女性は一瞬だけ不思議そうな顔をした。
「ああ、長谷川なら本日はお休みですが、どういったご用件ですか?良かったら伝言を承りますよ」とショートカットの女性が言う。
どうしようかと迷ったが、僕は大丈夫ですと伝えた。そして、明日なら出勤だと教えてもらった。明日出直しますと言って、その場から立ち去った。
まさか、休みとは思わなかったけど、これで千夏先生が働いていることはわかった。
そして今更ながら、先生の名前が長谷川千夏という名前なんだと知るのだった。僕は図書館をあとにして、少し早かったがバイト先へと向かった。
上野公園の桜が満開になった頃、僕は数日後、彼女と再会するなんて今の時点ではまったく思ってもいなかった。
吉祥寺駅に到着すると、僕は偶然にも朋美の姿を見た。彼女も早めに向かっているのか、いつもと同じパーカーとジーパンという格好で歩いていた。声をかけようと、あとをつける感じで追いかけた。
すると、朋美はオリーブへ向かうわけでもなく、店とは反対方向の道へ行った。何となく気になったので、僕は一定の距離をあけて後ろから歩いた。
一体、朋美はどこへ向かっているのだろうか。太陽はゆっくりと、僕らの影を引き伸ばしていた。
第45話につづく
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