第54話「潮彩の僕たちは宛てのない道を歩く」
昼過ぎに目覚めると、僕は何も起こらなかったことに困惑していた。台所で桃香がスパゲティを茹でている。僕は起き上がって背筋を伸ばした。公園のベンチで眠ったせいか、節々の関節に痛みがある。
あの心地良い温もりは、僕を生きる道へ導いてくれなかったのか。それとも開けるべき扉ではなかったのか。そう考えた方が良かったのか。
いずれにしろ、僕は寝ている間、夢も見なかったし願望の世界へ迷い込むこともなかった。
桃香は僕のタイミングを知っている。だから、シャワーを浴びて部屋に戻ると、おはようと挨拶をしてきた。僕の話したいタイミングさえ、桃香の第六感でわかるのだ。
テーブルに出されたスパゲティを食べた終わったとき、僕はなんとなく煙草を吸いたくなっていた。煙草と言っても、朋美が持ってる巻き煙草である。
だけど、ここに無いことぐらい知っている。だから、今日入っているバイトが終わったら、朋美のアパートへ行こうかと一瞬だけ考えた。
確か今日のバイトは、朋美と一緒だったからーーーー
「海ちゃん、美味しかった」と食べ終わった皿を洗いながら、桃香が聞いてきた。
「美味しかったよ。昨日、ろくに食べてなかったから」
「またいつでも寄ってね。海ちゃんの食べたい物を用意しとくから」と桃香は笑顔で言った。
やっぱり、今夜、僕が来ないことをわかっているようだった。これも、第六感で思考そのものが読まれているのだろう。それとも女の勘ってやつかもしれない。
よくよく考えたら、桃香という女の子は不思議だった。僕らは付き合ってもいないけど、こうして部屋に来ることを当たり前のようにしていた。肉体関係もあり、僕の願望も当たり前に叶えてくれる。
他人から見たら、恋人同士に見えるだろう。かと言って、付き合ってるわけではない。これって一歩間違えたら、僕は桃香のヒモになる。
都合のいい女とも言えるだろう。
僕らの関係って、一体なんなんだ。
僕は居たたまれなくなり、少し早めにバイト先へ向かった。僕の思考を知ってか知らないのか、桃香はいつまでもベランダから僕の姿を見送っていた。
桃香、君はいつでも僕の思考を感じて僕の願望に生きるのかい。成人式で再会したあの日から、君は宛てのない道を歩いている。僕にはそう思えて仕方がなかった。
このまま流れに身を任せるべきなのか?僕はひょっとして、帰る場所を失うのが怖くて、桃香と関係を築き上げたのか?
「帰る場所……」と無意識に呟いた。
僕は何か欠けた記憶を拾い上げた。
鍵のない扉。帰る場所。
僕は落ちた欠片を拾い上げる。長谷川千夏の言葉を思い返していた。そして意味を意味として、とらわれないように僕なりの道を歩いた。
今を歩く僕と鏡の僕が歩く道。僕たちはもしかして……
このとき、誰を思い、誰を浮かべたのか?
自分の思考を閉じ込めるみたいに、目を瞑って歩いた。どこかで言葉の意味合いを感じるように……
風に押される景色と並んでは歩き続けた。僕の帰る場所と僕の生きる道を重ねてみた。僕たちは宛てのない道を歩いていた。
バイト先のオリーブの営業時間は、通常、午前十時から十三時まで開けていた。それから一旦、店を閉めて午後の十八時から夜の二十三時まで営業していた。腕時計で時間を確認すると、時刻は午後十五時を指していた。
ずいぶん早く来てしまったけど、桃香の部屋であのまま過ごすのも気持ち的に辛かったの。甘えてしまう自分に嫌気がしたから。
裏口へ周り、店内へ入ると妙に静かだった。厨房の奥を覗いてもマスターの姿がない。大抵、午後から仕込みをしているはずなのに。裏口が開いていると言う事は、誰かは居るだろう。
そう思って、更衣室の前に立ってドアノブへ手を置いた。すると、中で誰かの居る気配を感じた。もしかしたら朋美も早く来たのか?
だったら、更衣室の鍵はかかっているはず。だから、ドアノブが廻るなんて思いもしてなかったし、まさか扉が開くなんて想像もしなかった。
『鍵のない扉を開けなさい』と頭の中で響いた。
第55話につづく
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