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第61話「潮彩の僕たちは宛てのない道を歩く」

静寂すぎる図書館から向かった先は、雛形朋美のアパートだった。ここ一週間以上、朋美は身体を崩して休んでいた。幾らなんでも長かったし、心配になってアパートへ訪れた。

アパートが見えると、朋美の部屋は灯りが点いていなかった。カーテンも閉じている。どうやら一度も外出していない恐れがあった。僕は少し早足で階段を上がり、朋美の部屋の前まで行くと扉を叩いた。


ここでも僕は、二十歳の長谷川千夏が言った言葉を思い返す。鍵のない扉を開けなさい。反応のない扉に、僕はノブを回してみた。ギィと歪な音が鳴ってから扉はゆっくりと開いた。妙な胸騒ぎがした。朋美の身に何かあったのか!?

僕は無意識に彼女の名前を呼んでいた。靴を投げ捨てるように脱いで、ガラス戸を思い切って開けた。壁際にもたれた朋美の姿が目に飛び込んできた。膝を片方だけ曲げて、朋美は天井へ向かって煙草の煙を吐いていた。

僕の姿に驚くこともなく、朋美はただただ煙草を吸っていた。少し虚ろな目をしている。僕は朋美の側へ近寄ると、肩を掴んで揺り動かした。


「朋美、大丈夫か?」と一言声をかけた。


「あら?誰かと思ったら海野くんじゃない。やだ、鍵開けっ放しだったかしら」と僕の姿に反応した瞬間、虚ろだった目が生き返った。そんな風に見えたんだ。


朋美は煙草を灰皿へ置くと、何か飲みたいと言ってきた。どうやら意識はしっかりしていたので、僕は少しだけ安心をした。だけど、彼女の姿が気になった。下はパンツ一枚で脇にジーパンが脱いだ形のまま置かれていた。

まるで、アパートに帰って来てから、一度も着替えていないような気がした。現に朋美の側に近寄ったとき、少し匂いがキツかった。

少しフラつきながら、朋美は立ち上がろうとした。部屋の灯りが点いていないので僕は朋美を一旦座らせた。そして、照明を点けようと、電灯の紐を持った瞬間、朋美が鋭い声で刺すように叫んだ。


「灯りは点けないで!!お願い!!いいから早く、早く飲み物を持って来てよ!!」


朋美の声に驚いた。僕を睨みつける朋美の表情が明らかにおかしかったのだ。ジッと朋美を見つめたまま、僕はその場から動けなかった。何か、朋美の中で割れたガラスが刺さっている。

朋美の表情から、僕はそんな絵を重ねた。異質な世界が僕らを包み込む。それでも朋美の瞳の奥に、少なからず助けを求めている光が見えた。だから、僕は黙ったまま、朋美を見つめることしかできなかった。


「う、海ちゃん……」と我に返ったのか、朋美が震えた声で言う。その声は弱々しく、まるで、見えない何かに怯えているみたいだった。


「朋美、君が嫌なことはしない。だから、落ち着いて」


朋美が僕のことを、海ちゃんと呼んだのが気になった。いつもの朋美じゃなかった。朋美は何かに怯えているんだ。だから、情緒不安になっている。

どうしてなんだろう。この一週間の間、朋美の中で何かが崩壊したように思えた。


「ご、ごめんなさい。海ちゃん、違うの……違うのよ!!お願いだから嫌わないで!!私のことを嫌いにならないで!!」


感情の何かが外れたのか、朋美は瞳から涙を流しながら、僕にしがみつくように掴んだ。震えた声は、息をするのも必死な声で訴えるように泣き叫んだ。僕は、そんな朋美を抱え起こすと、目をまっすぐ見て優しく話しかけた。


「少し疲れてるんだよ。飲み物はあとであげるから、今はシャワーを浴びてきな。それからゆっくり話しをしよう」


「どこにも行かない。私がシャワーを浴びてる間、どこにも行かないでよ!!」


「うん。どこにも行かないよ。朋美が上がって来るまで待ってるから」


朋美は僕の言うことを信じてくれたのか、何とか一人で立ち上がると、浴室へシャワーを浴びに行った。

その間、僕は部屋を片付けて、朋美がすぐに休めるように布団を敷いてあげた。カーテンを開けると、夕焼けは沈んで、辺りは静けさと共に暗闇が包んでいた。部屋の灯りを点けようか迷ったが、朋美のことを考えてやめといた。


それでも、少しだけカーテンを開けて、夜の光だけは差し込む程度、部屋に招き入れた。

そして、僕は、朋美が出てくるのを待った。


ずっと待ち続けた……


テーブルのゴミを片付けていると、朋美が浴室から戻ってきた。シャワーを浴びて幾分スッキリしたのか、表情に生気が蘇っていた。肩からタオルを下げて、薄いシャツを着込んでいる。

下は何も履いていなかったが、僕の姿に安心して微笑んだ。僕は何も言わず、朋美へ水を注いだコップを差し出した。朋美はそれを受け取ると、ゆっくり水分補給した。

ゴクッゴクッと喉の鳴る音が、僕の耳まで聞こえた。深い溜息にも似た息を吐いたあと、朋美は僕の前に腰を下ろした。膝を曲げて、両手で抱えるようにして丸くうずくまった。


「ありがとう……」と顎をあげて、朋美は一言お礼を言った。


僕は頷いて、朋美のそばに移動した。

そして、肩を抱くように寄り添ったーーーー


「たまに、精神が錯乱して崩壊するのよ。そうなったら、世の中が怖くなって心を閉鎖してしまう。一人になりたくなって、心の崩壊をゆっくり片付ける。だから、バイトも休んでた。でもね、心の奥で寂しくて寂しくて死にそうになるの。だけど、それは嘘。ホントは誰かの側にいたくてしょうがない」朋美はそう言って、僕の手を握った。


「どこかで海ちゃんが来てくれないか願ってた。今の私に友達や信頼できる人がいない。それでも、海ちゃんを呼ぼうとは思わなかった。だって、海ちゃんは誰のモノでもないし誰かのモノでもある。それに、私なんかが海ちゃんを独占したらいけないんだ。そんな風に思っていたの……」


「僕に彼女がいるから?」と聞き返す。


「ううん、美鈴ちゃんの存在はどうでもよかった。私にとって、どちらでもよかったのよ。これは自分自身の問題だから……」


「どういう意味?」と、もう一度聞き返す。


「私は汚れた人間だから、海ちゃんまで汚してしまう。私はどこかに欠陥があるのよ。だから、汚れた私に近づいたらダメでしょう。でも嬉しかったよ。こうして側に寄り添ってくれるから。それだけで救われた」


「朋美が汚れているなんて思わないよ。それに、そんな風に考えたこともなかった」


「それは海ちゃんが優しいからだよ。きっと汚れた私を知ったら、幻滅して離れると思うわ」朋美はそう言って、僕の方へ顔を向けて見つめた。


時間が止まったように、僕らは見つめ合った。きっと、キスをするだろうと。どこかで思った。だけど、それは少し違うと思う自分がいた。僕には大切な人がいるから。

これ以上、関係を深くしてはダメなんだ。こんなのは幸せと言わない。欲望に任せて、朋美に優しさの嘘は添えてはいけないんだ。


そんなの反則だよ。


「ねぇ、やっぱり私は汚れてる。それで良いのよ。私といつまでも関係を持たないで」と少し声を震わせて、朋美は僕から離れようとした。


「朋美、君は美しい人だよ」


僕の指先から糸がほどけるように離れた朋美。今の僕に、それ意外の言葉は出なかった。何かを躊躇してるとか、そんな気持ちとは違った。朋美が汚れてる意味を理解していなかったから……


僕の言葉に、朋美は立ったまま肩を震わせていた。また泣いている。コップに注いだ水はカラッポで意味をなしていなかった。僕らは満たされることなく、ただただその場しのぎだったのかな。


「汚れてる。ねえ、海ちゃん、私は汚れていないかな。まだ間に合うのかな」と途切れ途切れの言葉で朋美は呟いた。


そして、振り向いてから、僕の目の前でゆっくりと薄いシャツを両手で捲った。綺麗に整えられたアンダーヘアーが露わになった。薄いシャツで隠れていた下は何も履いていなかった。

頬には朋美の言葉を表すように、途切れ途切れの涙の跡があった。座り込んで、朋美は股を開いた。薄明かりの中、朋美の秘部は濡れていたーーーー


「私は綺麗かな」と呟いた。


僕にできる精一杯の思いやり。コップに注いだ水はカラッポで、朋美の秘部は溢れてる。汚れてるなんて言わないで欲しかった。

そんな風に思わないでと、言葉にするわけでもなく、僕は濡れた秘部を丁寧に舐めてあげた。匂いのないチーズが溢れては、僕は夢中で舌を使って舐めた。朋美は瞼を閉じて、僕の行為に身を任せては声に出して悦んだ。

僕は思いやりでオーラルを続けた。朋美が果てるまで舐め続けた。ほどなくして、朋美が果てたとき、満足した表情で僕の顔を見つめた。


それから流れるように、僕を押し倒した。朋美の細い指が硬くなった下半身を取り出す。

それは華麗で神秘的な動作だった。朋美は優しく舌先で舐めて、僕の表情を確認した。その気持ち良さに、僕も身を任せて快楽に酔った。至極のオーラルが続けられて、僕は大量に朋美の口へ射精した。

朋美は口いっぱいの精液を飲み込んで、出会った中で一番の微笑みを魅せた。


僕たちは、お互いにそれ以上の行為を望まなかった。朋美が言う汚れているとは、最後の最後までわからなかった。だけど、きっとどこかで通じ合ってると思えた。


あの日の夜、僕は朋美を抱いてあげれば良かったのかな。それで朋美を救えたのかな。

「その場しのぎの思いやりじゃないよ……」


朋美が僕に向かって、最後に言った言葉だった


そして三日後の夜、朋美は自らの命を絶つのだった。


第62話につづく