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第37話「黒電話とカレンダーの失意」

 日暮れが早くなった季節、僕のアパートでは食欲をそそるような匂いが漂っていた。チャコが作り始めたカレーライスに懐かしい匂いを感じる。運命とは偶然なのか、三年前の夏、姉さんが最後に作ったカレーライスを思わせる。

 だけど、チャコがカレーライスを作ってくれたのは偶然だし、姉さんが作るカレーライスとは違う。そんなのは当たり前だけど、不思議と運命とは偶然なんだと思えて仕方がなかった。

 一人娘の雫は、テレビのアニメに夢中で僕と会話をすることはなかった。僕は自分のアパートだけど、遠慮がちにその不思議な空間を見つめながら待っていた。炊飯器から湯気が出る光景なんて久しぶりだったし、こんな風に台所からまな板を叩く包丁の音さえ新鮮に聞こえた。

 一人暮らしに慣れてしまい、忘れていた普通の光景。アニメが終わりに近づいたとき、チャコがテーブルにサラダと缶ビールを並べた。

 病人と言っても骨折なので、食べる物に制限はないからアルコールは素直に嬉しかった。一人だとなかなか飲む機会もなく、よっぽどのことが無い限り飲むことはなかった。

「お酒飲めるよね?」とチャコが聞いてきた。

「強くはないけど飲めるよ。滅多に飲まないから嬉しいな」と僕は缶ビールを受け取って笑顔になった。

 これがチャコと会ってから、初めての笑顔のような気がした。このときから、僕はチャコに対して昔のような感覚はなかった。別れた元恋人というより、今も付き合っているような錯覚さえあったのだ。

 チャコも付き合うと言って、僕らは缶ビールで退院祝いをした。酒のつまみに枝豆も買ってきてくれたので、僕は枝豆を食べては缶ビールで喉を潤した。

 雫は枝豆が嫌いなのか、一つも食べずにカレーライスをかき込むように食べ始めた。雫用に作った甘いカレーライスは、子供のいる家庭で当たり前のことなんだろう。僕たち用のカレーライスは、酒を飲んでから食べることにした。今は久しぶりのアルコールに酔いしれるのも良いものだ。

 二本目の缶ビールを飲み始めた頃、頬をほんのり赤くさせたチャコが、テーブルの下でつま先で触れた。触れたことに意味があるのか、そんなことを考える余裕さえなく、僕は足に触れてきたチャコのつま先に意識しているのがわかった。

 テレビの画面を横目で観ていたけど、全く内容は入って来ない。

 チャコから来年の春に、娘の雫を保育園へ入れようと思ってる。そんな会話をしても、頭の中はチャコのつま先が思考回路を狂わせた。せっかく再会したのに、僕から話さないのはどうなんだろう。そんな風に思って、僕はチャコに今の生活を聞いてみた。

「あのさ、短大の頃の生活を聞かせてよ。高卒で終わったから、短大生活が想像つかないんだよね」

「うーん、短大ね。実はいかなかったの」とチャコは答えた。

「そうなの、えっ、どうして!?」

 この質問は良くなかった。僕という人間はこんなにも鈍感なんだと、このあとチャコが答えた言葉を聞いて恥ずかしくなったのだ。

「妊娠してたし、短大なんて行ける余裕はなかったの。でも、後悔はしてないよ。あの子を産んで良かったと思ってるもん」

 僕はなんて大馬鹿野郎なんだ。チャコが短大に行けなかった理由は確実に僕じゃないか。しかも、それを知ってるくせに無神経な発言だった。あの子を産んで良かったは、まるで僕の発言を無かったことにしてる。チャコなりの気遣いだとわかった。

「チャコ。その、雫、子供のことなんだけど」と僕は動揺して、聞けなかったことを口走った。

「一路くん。今は、今はよそう。この子の前で話すような内容じゃない」とチャコがテレビを釘付けになってる雫へ、視線を移して口にした。

「あ、ああ……ごめん」

「ううん。ねぇ、もう一本ぐらい飲もうよ」

 二本目の缶ビールも飲み切ってないのに、チャコは三本目の缶ビールを開けてぎこちなく笑顔になるのだった。僕が空気を読まないから、こんな感じで場の空気が変化する。

 あまりにも無神経すぎる自分が嫌になって、少しだけ逃げたい気持ちにもなるのだった。

 こんなんだから、僕は人の気持ちを理解できない、成長のない大人なんだろうか。チャコだけが大人になって、僕はまだまだ世間知らずの子供みたいに思えた。

 そして、ゆっくりと時間は過ぎていき、僕たちは晩御飯を食べ終わるのだった。

 第38話につづく