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第36話「黒電話とカレンダーの失意」

 頭の片隅で青年が言った言葉を繰り返す。瑠璃婦人からの質問に対して、決して『いいえ』とは答えちゃいけないんだと。

 僕の暮らしを心配して、瑠璃婦人は屋敷へ招いてくれた。僕一人残した姉さんが瑠璃婦人と、どんな関係だったのか知らないけど、これも姉さんが瑠璃婦人と知り合いじゃなかったら、僕はあのまま心まで腐り、残りの人生を無駄に過ごすような暮らしで終わっていたかもしれない。

 ほんのり甘い紅茶を一口飲んで、テーブルの上に置かれた瑠璃婦人の手に嵌められた指輪が目に入る。

 どれくらいのカロットなのか、検討もつかないほどの大きなダイヤモンドリング。こんな大富豪の婦人が、どうやって姉さんと知り合ったのか?僕の疑問はそこにあった。

 姉さんと数十年暮らして、僕の前で婦人と知り合ったことなんて聞いたことも素振りさえ見せなかった。

「あなたはこれからの人生の半分、もしくはそれ以上、私と歩むことになります。今の暮らしから何も教わることはないでしょう。ただ一つわかっているのは、一路さんは歳を重ねるたびに、後悔のサイクルを繰り返しては、人生に悲観的な考えしか浮かばなくなる。それはとても悲しいことで、今を生きるとは違います。だから私は、霧子さんが私と歩んだように、一路さんにも私と歩むことを考えました」

 突然の出会いから、突然の告白はあまりにも身勝手な話だった。僕は青年の言葉を思い出して、瑠璃婦人に対して『いいえ』とは言わなかった。

「はい。婦人の言うことは正しいと思います。僕はどうすれば良いのですか?」と静かな口調で言葉を返した。

「私とお話をしましょう。時間が続く限り、あなたは私のお話を聞いて下さい。それがあなたに与えられた仕事になります。もちろん給料はお渡しします。特に曜日が決まっているわけじゃありません。私があなたを呼び出したときに屋敷へ来て下さい。何も難しいことじゃないでしょう」

 瑠璃婦人と話す?それを仕事と呼ぶのか疑問だったけど、とにかく僕は青年の言った言葉を守り、瑠璃婦人に向かって『はい』と答えていた。

 詳しい話はそれ以上なかった。霧子姉さんと瑠璃婦人の関係も話すことはなかった。ティーカップの紅茶が無くなる頃、瑠璃婦人と初めての出会いは終わりを迎えるのだった。

 ベルが鳴らされると、お手伝いの女性が部屋に入って来て、瑠璃婦人のそばに寄って耳を傾けた。お手伝いの耳へ囁かれる声は聞こえないけど、本日はこれでお終いなんだろうと思える。

 青年はほんの小一時間と言っていたけど、確かに腕時計で時間を確認したら、屋敷に来てから一時間ほどだったと気付かされるのだった。

「一路さん、今度会うときはアパートへ車を寄越します。連絡方法は後ほどお伝えしますので心配なさらないで下さい」

「はい、わかりました」と僕は言われるまま素直に従った。

 お手伝いの女性へ促されて部屋を出ると、瑠璃婦人が「次回を楽しみにしてます」と言葉をかけてきた。『はい』と答えて、僕は会釈をして部屋から出て行った。

 部屋を出ると、青年が待ち構えており車で送りますと言われた。

 経った小一時間の訪問だったけど、とても奇妙で濃い内容に神経が疲れたのは確かだった。車に乗り込むなり、瞼を閉じて色んなことを頭の中で考えた。

 結局正体のわからない大富豪の婦人。僕はこの先の人生を一緒に歩むことになったわけだ。それだけは確かなことだったけど、次回訪問するときは、何か聞けることを考えておこうと思うのだった。

「これが僕の仕事で三年前から続いている。だから、昔みたいに悲観的な考えはしていないけど、わかってないことが多いから、戸惑うところは多いよ」とチャコにこれまでの生活を説明してあげた。

「不思議な話ね。でも、一路くんがお姉さんの死を乗り越えたのは間違いないんだよね」

「乗り越えたと言うか、乗り越えなきゃいけないとも言うだろう。それでも知らないことは多いから、僕は逃げないことを考えないように頑張ろうとしてるのかな」と昨夜の出来事を思い出しながらチャコに打ち明けた。

 だけど今年になって、僕は少しずつ周りの変化に出くわしてる気がした。神社で出会った月乃さんや、こうしてチャコとも再会を果たしている。それに、同級生の加代ちゃんと妙な繋がりがあることも思い出した。

 僕の話に興味がなくなったのか、いつの間にかチャコの横で正座をしていた雫が、眠たそうな顔して肩を揺らした。

「一路くん、今夜の晩御飯とかどうするの?」とチャコが壁に掛かった時計を見て言った。

 時刻は午後三時を過ぎていた。秋の夜長が近づく気配を窓から見える景色から感じた。晩御飯のことなんか全く考えてなかったので、どうしようかと考えるが何も浮かばなかった。

 だから、出前でも頼むよと答えた。するとチャコからある提案をしてきた。

「私、スーパーに行って買い物して来るから待ってて。昨日から、きちんとしたもの食べてないでしょう」

「そんなの悪いよ」と僕はすぐに断ったけど、チャコは無視するように立ち上がると、雫へ声をかけた。

「雫、ママと買い物行こう」

 あれだけ眠そうな顔してた女の子は、嬉しそうに立ち上がってチャコの腕を掴んだ。こんなとき足が骨折してるのは痛かった。近所のスーパーへ買い物に行くことも大変なのはわかりきっている。それに、心の中で久しぶりに手作り料理を食べたいなぁと、そんなことも思うのだった。

 こうして僕は、昔の恋人と晩御飯を共にすることになった。

 第37話につづく

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