冬の人魚

第208回短編小説新人賞 もう一歩

 流氷の合間、冷たい海の中へと沈んでいく。
 口から空気が抜けて、四肢から力が抜けて、命から魂が抜ける。
 最初は、身を切るような冷たさに凍えた。しかし気付けば冷たさすら感じなくなって、石(いし)坂(ざか)柘榴(ざくろ)は海の中から空を見上げていた。太陽の光が水の向こう、遠くに見えた。自分は死ぬのだな、彼女はそう確信した。
 自分がいつか死ぬことについて、考えたことがないものなどいるだろうか。少なくとも柘榴は考えたことがあった。しかしこの死に方は予想外だった。柘榴は心中では苦笑したが、その通りに顔を動かす力もなかった。

 そんな彼女の体の周りをたゆたうものがあった。
 クラゲか何かだろうか? いや、クラゲがこんな冷たい北の海を泳ぐだろうか? 彼女の生物の知識は乏しかった。
 柘榴の周りをたゆたうものは、やけにしっかりとした質量を持っていた。水のゆらぎがそれを伝える。
 空に向けていた目をそちらに動かす。

 そこには人魚がいた。

 徐々に止まろうとしていたはずの心臓が大きく脈打つ。
 それは紛れもなく人魚だった。上半身は大きな胸をあらわにした裸。下半身は魚の尾びれ。人間が想像する人魚の姿そのものがそこにはあった。
 海の中を人魚の長い赤い髪が意思のある生き物のように漂っている。
 人魚は黄色い目でしばらく柘榴を物珍しそうに眺めるていたが、やがて手を伸ばしてきた。何となく柘榴は振りほどきたかった。しかしそんな力ももうない。人魚は柘榴をしっかりと抱き抱えた。
 沈んでいた海から柘榴はあっけなく引き上げられた。人魚は見た目の華奢なイメージとは違い、とても力強かった。
 海から上がれたところで、柘榴の体はまだ芯から凍えていた。
 陸地に上がれたところでどうせ死ぬ。溺死が凍死に変わるだけだ。そう思っていると、人魚が柘榴の服を脱がし始めた。
 下着だけになった柘榴の体に人魚は抱きついた。完全にくっつくには人魚の豊満な胸が邪魔っけだった。
 人魚の体温は流氷浮かぶ海の中にいたとは思えないほどあたたかだった。体内に太陽を宿しているかのようだった。
 人魚は太陽で出来ているのだろうか? 点滅する意識の中、柘榴はそんなことを思った。

 石坂柘榴は自分の名前が嫌いだった。
 黒、と入っているのがとにかく気に入らない。
 両親にどうしてこんな名前をつけたのかと訊けば、母がつわりで苦しい頃に柘榴ばかり食べていたからだという。
 ふざけた話だと思った。
 鏡を見ればどうカットしても、黒く重たくのしかかる髪の毛が「お前は黒だ」と語りかけてくる。
 そんな彼女も大学に入学。親元を離れて最初にやったのは、髪を茶色く染めることだった。プールで色素が抜けた程度でしかない茶髪は、しかし柘榴の気持ちを慰めた。
 長らくクロちゃんだったあだ名も、大学ではイッシーになった。
 黒を自分の人生から排除することに、彼女は段々と成功していった。

 だからサークルの懇親会で同じ学科の同輩、櫛(くし)崎(ざき)釧(くし)路(ろ)に出会ったとき、柘榴は思わず笑いそうになった。
 名前に白が入った、若いのに白髪交じりの男。
 自分と正反対な男に、柘榴は少し運命めいたものを感じた。
 それは単純に顔が好みだったというだけかもしれない。
 なんにせよ、櫛崎に近付くために、嫌いだったはずの黒を彼女は口にするようになっていた。
「櫛崎くんって、やっぱ昔のあだ名、白だったりする?」
「ああ」
 櫛崎は言葉数が少なく無表情な男だった。
 柘榴が話しかけても、迷惑なのか嬉しいのかも分からない顔をしていた。
「私もクロちゃんだったよー」
 なんてことはないようにその事実を言えるようになったのが、進歩なのか退化なのか柘榴には分からなかった。
「そうか」
「いやじゃなかった?」
「……北海道に修学旅行に行ったとき、銘菓で恋人恋人といじられるのはいやだった」
「へー?」
 手元のウーロン茶を飲みながら、柘榴は話を続ける。
「釧路って北海道の地名のまんま。名前の由来?」
「両親が出会ったらしい、そこで」
「へー、ロマンチックでいいね。私なんて母親が妊娠中に柘榴ばっか食ってたから、なんて理由だよ」
「石坂さんは柘榴で出来ているんだね」
「あはは、ナニソレ」
 そういうことを言われたのは初めてだった。

 櫛崎とは春に出会い、夏を過ごし、秋とともに学び、冬には彼に恋人ができた。
 彼女はサークルの一員だった。違う学科だった。重たい黒髪が印象的なおとなしい子だった。

 別に柘榴は櫛崎に対して好きだと告げたわけでもない。好きだったのかも分からない。顔が好みだった、それだけかもしれない。
 鼓動を感じたのは夏のせいだったのかもしれない。櫛崎と柘榴の間には何もなかった。柘榴が思っていた以上に何もなかった。

 それでも柘榴は傷心旅行に赴いた。

 ただなんとなく傷心旅行というものをしてみた。一生に一度、してみるのも悪くないと思った。
 だから別に死にたかったわけでもない。
 訪れたこの場所で氷を踏み砕き、柘榴が思いっきり死にかけたのはただのうっかりだった。
 そして海の中で、なんだかもう死んでも構わないと思ってしまった。それだけのことだった。

 それが今、こうして助かっている。

 人魚はしばらく柘榴にくっついていた。人魚の規則正しい鼓動に合わせて柘榴の全身にも血が巡るようだった。柘榴はぼんやりと人魚の顔を見る。若くキレイだった。この世で一番美しいものがそこにある。そういう感じがした。
「大丈夫か!?」
 夢のような時間を切り裂く、大声が聞こえた。その声に人魚は跳ね上がった。
 一瞬、柘榴を心配そうに見つめたが、人魚はすぐに冷たい海へ音もなく潜っていった。柘榴は置いていかれたまま、人が寄ってくるのを力なく待った。
 服を脱がされた下着姿なのが、途端に嫌になった。

 その後に運ばれた病院のベッドの上から、柘榴は外を見た。灰色の空と白色に近い海が見えた。人魚の戻って行った海。当然ながら人魚は病院から見えることはなかった。
 体には凍傷の痕が残ったが、幸運なことに後遺症は残らなかった。
 病院の人間にも警察の人間にも柘榴は事故だと言い張り、その主張は受け容れられた。
 服を脱いでいたのは錯乱していたからだと結論づけられた。
 服に関して、第一発見者が疑われなかったのはよかったと柘榴は心から思った。

 事務的手続きを終えて、柘榴はまだ洗濯されてはいない、しかしすっかり乾いた自分の服の中から、光るオレンジ色の鱗を見つけた。人魚のものだろうと、財布のポケットにしまい込んだ。ひとり、蛇の抜け殻じゃないんだから、と少し笑った。

 退院時、衣服を整え、鏡を見れば、そこにはどこかすっきりした顔の自分がいた。

 大学に戻ると櫛崎はひどく心配そうな顔をしてくれた。柘榴はそこでもなんてことはないと言い張った。
 それでも「柘榴が櫛崎に振られたから当てつけに海で死のうとした」という噂はどこからともなく流れた。
 柘榴はそれを否定し続けたが、櫛崎は彼女と別れた。柘榴はそれをどう思っていいのか分からず、櫛崎と距離を取った。

「なあ、柘榴、そろそろ俺と話をしてくれよ」
 そう言われたのは二年目の春が過ぎた頃だった。柘榴はサークルには顔を出しづらくなっていて、行く頻度は減っていた。
 それでも学科が同じ都合上、櫛崎とはどうしても顔を合わせる機会があった。それを避けることはできなかった。
 講義の合間、櫛崎が柘榴に話しかけてきた。
 ふたりは噂のふたりだった。好奇心旺盛な周囲の視線が痛かった。
「……別に話すこと、なくない?」
 柘榴はそう返答した。
「……ないけど」
 歯切れの悪い櫛崎に、柘榴は戸惑った。
 なんとなく財布に入れた鱗を思い出す。
 柘榴にとってはもうすべて終わったことだった。
 ただ人魚のあたたかみだけが体のどこかに残っていた。
 それ以外は終わったことだった。柘榴にとってはもう終わり。櫛崎が彼女と別れたことには一抹の申し訳なさはあったけれど、それだけだ。それ以上はない。
 しかし、櫛崎は言葉を続けた。
「……気まずいだろう、いろいろ」
「堂々としていなよ。櫛崎は何も悪くないし、あれは……本当にただの事故だったんだから」
 柘榴にとってはもう事故に遭う前のことはどうでもよかった。
 事故に遭った後の人魚との出会いだけが、彼女の中に染みつくものだった。
 あの人魚は今も北の海を泳いでいるのだろうか? そう思いを馳せた。
「……こっち見ろよ」
 櫛崎は苦々しげにそう言った。
「……ごめん?」
 視線は櫛崎にやっていたはずだった。
 しかし櫛崎を見ていたわけではないのは確かであった。
 柘榴は素直に謝る。その姿に櫛崎は余計に腹立たしそうな顔をする。
 柘榴は当惑し、言葉を探した。
「本当に気にしてないんだから、関係ないんだから……よりを戻せばいいじゃない。あの子と彼女さんと」
 その返答はどうやら的外れだったようで、櫛崎は非常に気分を害したような顔になった。
「もういい」
「そう」
 櫛崎はそれでもまだ何か言いたげに柘榴を見ていたが、やがて去って行った。
 柘榴はため息をつく。
 カバンの中をまさぐり、財布に入れた鱗を撫でた。鱗は色あせることなくそこにあった。オレンジ色の鱗。調べれば何かの生物の鱗であることが判明するかもしれない。しかし柘榴はそんなことには興味がなかった。
 これは人魚の鱗だ。柘榴にはそれだけで十分だった。

 夏が来て、サークルの合宿は海へ行くことが決まった。もちろんあの北の海へではない。国内の南のリゾート地だ。それでもあの北の海と同じで、太平洋側の海だった。
 人魚がいてもおかしくないかもしれない。柘榴は少し考え出席を決めた。
 冬の流氷の海で出会った人魚が夏の海にいるとも思えなかった。それでも一縷の望みにかけた。

 例の事件があった柘榴を海に連れて行く、そのことにサークルの合宿担当は複雑そうな顔をしたが参加を受け付けてくれた。
 合宿には櫛崎も参加することになった。櫛崎の元カノは参加しなかった。

 合宿に向かうバスの中、隣になったのはあまり喋ったことがない同学年別学科の女子だった。
「イッシー、海に落ちたりしないでよー」
 クロちゃんの代わりに勝ち取ったあだ名が今では懐かしく、そしてどうでもよかった。
「落ちても夏の海なら大丈夫だよ」
 冷たくはないだろう。凍えることはないだろう。それでも人魚はいるかもしれない。柘榴はそればかりを期待していた。
「それもそうか。ね、ね、冬の海に落ちたときってさ、どんな感じだった?」
「おい、やめろよ」
 後ろの席の櫛崎が口を挟んだ。隣席の女子はばつの悪そうな顔をして、黙り込んだ。
 別に良いのに、柘榴はそう思った。しかし自分から積極的に話をする気にもなれず目を閉じた。

 夢の中で柘榴は北の海を泳いでいた。もちろん人魚といっしょにだ。空には太陽が輝いていた。あたたかかった。

 南の海は生温かかった。本格的に泳ごうとする人間はわずかで、だいたいが砂浜に山を作ったり、ビーチボールを投げ合ったり、パラソルの下に寝っ転がったりしていた。
 櫛崎は数少ない泳ぐ組で、ひとり遠くまで泳いでいた。櫛崎が泳ぎが好きなことを、柘榴は初めて知った。
 柘榴は砂浜からほど近い海の中に足を浸した。泳ぎはしなかった。水着を持ってきていなかった。そもそも凍傷が残っている肌を他人に晒したくはなかった。
 ビーチサンダルのまま入った海は生ぬるく、あの日の身を切るような冷たさとは無縁だった。
 人魚はこの南の海にはいないかもしれない。柘榴はようやくそう思った。
 人魚のいない海に浸っている気もなく、柘榴は海から上がり、パラソルの下へ戻った。
 櫛崎はその間中、ずっと海で泳ぎ続けていた。

 夜には花火をした。
 ネズミ花火にはしゃぎ、打ち上げ花火にはしゃぐサークルメンバーを柘榴は遠巻きに眺めた。
 オレンジ色の火花に彼女は財布に入れた鱗を思い出した。肩掛けカバンに入れたそれに、夜の暗さの中で手を伸ばすのはさすがに危機感を持った。なくしたくなかった。
 代わりに柘榴は線香花火をじっくりと眺めた。気付けば櫛崎が隣に近付いてきていた。
 その日一日で、櫛崎はすっかり黒く日焼けしていた。黒色、あんなに嫌いだった色が、なんだか柘榴は懐かしかった。
「……少し話さないか?」
「…………」
 しつこいと正直に文句を言うことも出来ず、柘榴は線香花火が落ちるのを待って、立ち上がった。
 誰かがこっそり輪から抜けようとサークルメンバーは気付かなかったし、気にしなかった。柘榴たち以外にもこっそりと抜け出しているカップルは何組かいた。
「海、入らなかったんだな」
「足は浸した」
 そして諦めた。
「俺は海、好きなんだ」
「だろうね」
 泳いでいるのを見ていたのだから、察している。
「北の海より南の海が好きだ」
「そう」
 風が柘榴の茶色い髪を揺らした。南の海辺は夜風すら生ぬるかった。
「……柘榴」
 それに続く櫛崎の言葉を柘榴は予感できた。
「俺と付き合ってください」
 それを断るのは簡単なはずだった。
 そのつもりで柘榴は櫛崎の顔を見た。櫛崎は真剣な表情でまっすぐ柘榴を見ていた。
 断るつもりだった。それなのに柘榴の口から出てきたのは、思いもかけない言葉だった。
「はい」
 櫛崎は一瞬、驚いた顔をしたけれど、すぐに微笑んだ。櫛崎は柘榴に歩み寄った。ふたりの影が夜の闇の中で重なった。
 南の海の夜はじっとりと暑かった。

 自分は妥協をしたのかもしれない。柘榴はそう思った。

 夏が終わり、櫛崎と秋を過ごした。
 冬が来ても柘榴は北の海へ行くことはできなかった。
 彼女に与えられた人魚の名残は鱗と太陽と凍傷だけだった。
 海には二度と近付かなかった。
 櫛崎に何度、南の海に誘われても柘榴は断った。あれ以上、生ぬるい海に失望したくなかった。

 人魚なんてどこにも居ないのかもしれない。そんな言葉が胸をよぎる度、柘榴は鱗を撫で、凍傷を抱きしめ、太陽を仰いだ。

 大学を卒業し、適当な会社に就職し、そして二年と経たないうちに櫛崎との子が出来て、柘榴はそのまま退職し、家庭に入った。

 石坂柘榴は櫛崎柘榴になった。

 穏やかな日々が続いていった。
 子供はふたり産まれた。
 子供たちが少し大きくなってからは、行楽のシーズンに海に行くことをねだられることもあった。
 それでも柘榴は海には行かなかった。
 櫛崎と彼の弟が子供たちを海に連れて行ってくれた。
「お母さんは昔、海で溺れかけたことがあってな、だから海が怖いんだ」
 櫛崎はそんな言葉で子供たちを諭した。
 もしかしたら彼の中ではそういう風に記憶が書き換えられているのかもしれない。
 記憶というのは薄れていくものなのだから。

 柘榴自身、もう北の海の冷たさを思い出せなくなってきていた。あの凍えるほどの海を体が忘れていった。
 ある日彼女は唐突に鱗を財布から取り出し、タンスの奥にしまい込んだ。
 夏は太陽を遮るための帽子とサングラスを欠かさなくなった。
 夜、櫛崎は何も言わずに柘榴の凍傷を撫でた。

 柘榴は自分から徐々に失われていくもののことすら、忘れていった。

 結婚から二十数年が経ち、子供たちが独立した。
 久しぶりに旅行に行こうということになった。

「北の海に行きたい」

 これを逃せばもうない。そう思った。
 櫛崎はしばらく渋っていたが、とうとう折れた。

 柘榴はしまい込んでいた鱗を取りだした。何の処理もしていないというのに、腐ることも色あせることなく鱗はオレンジ色に光り輝いていた。
 太陽の光にかざすと、そのオレンジ色のきらめきはあの人魚の輝きを彷彿とさせた。ハンカチで丁寧に包み、柘榴はかばんの中に鱗を入れた。

 出発前、鏡を見た。少し老いてしまった自分が生気の無い目でこちらを見ていた。年を取ったのだ、忙しい日々の中、そんなことすら気付けなくなっていた。

 かつてひとりで訪れた北の海に、柘榴は櫛崎といっしょに訪れていた。吹き付ける風が冷たく、肌を切り裂くようだった。
 灰色の空、重く垂れ込む雲の間から、太陽の柔らかい光が漏れていた。
「寒い」
 身をすくめて櫛崎がシンプルな文句を漏らす。柘榴は聞き流してさくさくと進む。
 足元の雪を踏みしめて、海へ海へと向かう。流氷の浮かぶ冷たい海。
 凍傷の痕が妙に疼いた。ハンカチに包んだ鱗を思い出す。太陽の光を浴びて柘榴は海へとたどり着いた。
 迷わず氷に乗る。
「おい!」
 櫛崎の緊迫した声を無視して柘榴は走り出した。氷の縁、海の近く。覗き込む。
 体はあの冷たさを思い出していた。あの冷たさ、全てを凍らせる海。心臓が止まりそうになる。息が止まる。力が抜ける。魂を海が呼んでいた。
「柘榴!」
 櫛崎が柘榴の腕を掴んだ。
「……人魚」
「何!?」
「人魚がいない」
 人魚は北の海の中にもいなかった。空を仰げば太陽の光がふりそそいでいた。人魚はどこにもいなかった。

 しばらく柘榴は氷の上に膝をついていた。手も氷の上に置いてしまい、手袋をした手は氷に貼り付いていた。櫛崎は柘榴の腕を掴んだまま、いっしょに凍り付いていた。
 人魚は海の中にしかいないのだろうか。
 しかしあの日、いっしょに氷の上に上がったのだ。あのぬくもりは柘榴の胸の中によみがえっていた。
「…………人魚」
 柘榴はふらりと立ち上がる。櫛崎は安心して手を緩める。そして彼女は海の中へとその身を滑り込ませた。
「柘榴!」
 櫛崎の声を聞きながら彼女は冷たい海へと沈んでいった。

 懐かしかった。身を切るような冷たい海。口から空気が抜ける。四肢から力が抜ける。命から魂が抜ける。
 そして柘榴の黒い髪は海の中に広がった。
 ああ、あの頃はこの髪が疎ましかったっけ。すっかり染めるのをやめてしまっていた。櫛崎の白髪交じりの髪も今ではすっかり総白髪だ。
「…………」
 そして柘榴は身のまわりにその気配を感じ取った。
 懐かしい質量のある存在。彼女の周りをたゆたう質量。ずっと忘れていて、ずっと忘れられなかった太陽。
 人魚、と口を動かす。もちろん声など海の中では出ない。
 人魚の顔はあの頃と変わっていなかった。若くキレイだった。自分の老いた顔を思い出す。人魚はこの世のものではなくて、自分はこの世のものだった。そう思い知らされる。
 しかしここはどちらだろう。冷たい海の中。命を奪う場所。ここは自分の世ではないのだ。しかし柘榴は今、ここにいる。

 ここでたゆたっている。

 人魚が顔色で問いかけた。上がるか、上がらないか。昔、問答無用で上げてくれた人魚は、今回は聞いてきた。どうするか、と。
 やはり昔のあれは事故だったのだ。そして今の自分は意図的だ。だから人魚は聞いてくる。帰るのか? 帰らないのか?
 帰りたかった。この海に帰りたかった。だから柘榴は人魚への答えを返そうと、どう返そうと表情を動かして、そして静かなその海に、質量を伴った音が乱入してきた。

 櫛崎が、海へと飛び込んだ。

 ここは北の海だ。南の海ではない。
 人魚はそちらをにらみつけた。櫛崎の姿をとらえると猛然と櫛崎に襲いかかった。櫛崎は驚かなかった。まるで人魚が見えていないかのように、ただ真っ直ぐと柘榴へと向かう。
 人魚の体は櫛崎に弾かれた。
 櫛崎の手は柘榴に伸びた。

 半日後、柘榴は懐かしい病院の病室に居た。
 今回通されたのは海の見えない病室だった。灰色の空だけが彼女の目の前に広がった。櫛崎も同じ病院に入院していたが、男女で病棟は別だった。
「あの海には人魚がいる」
 病室で隣り合わせた老婆がポツリと呟いた。柘榴はあまり驚かなかった。老婆の目は老いてなお消えぬ太陽のような輝きを持っていた。
「だから海には近寄っちゃいけない。地元の子はよく言い聞かされることだ」
「でもおばあさんは近付いたのでしょう? そう言う目をしてます」
「……あんたはどうして上がってきた?」
 老婆は答えずそう問いかけた。
「……しがらみがあったからです」
 夫の手を振りほどけなかった。それだけのことだった。
「誰だってそんなもんだ」
「そうですね」

 退院して、家に戻った。子供たちが独立して広くなった家で、柘榴と櫛崎は再び暮らし始めた。
 柘榴はハンカチから鱗を取りだした。そしてお土産の置物の前にひっそりとそれを置いた。
 窓から差し込む太陽に鱗はオレンジ色に光り輝いた。
 櫛崎は何も言わなかった。ただ一回鱗を撫でて、それで全部おしまいになった。


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