失恋の誉れ
かつて好きだった男の死体が川から上がった。
「……白髪、増えましたね、紫先生」
清潔なベッドに横たわる遺体を眺めながら、私は力なく呟いた。
すでに様々な処置のなされたあとの遺体はとても綺麗だった。
死んでいるなんて嘘みたいだった。
さすがに記憶に残る紫先生の顔と比べると老いを感じさせた。
しかし死んで当然という年齢にも見えない。
この人はそういえばいくつになるのだろう。
私はそれすら知らないことに気付かされた。
「争った形跡なし、近くの橋から遺書が発見、まず自殺ですね」
感情を排した職務に徹する警察官の言葉。私は頷くことしか出来ない。
「そうですか」
「ご遺族の連絡先をご存じですか? 青井愛さん」
私は困る。
紫先生が唯一所持していた身元の分かる代物。古びた手紙の送り主だった私は困る。
「……知りません」
古びた手紙には二つの住所が書かれていた。幼い日の私が書いたものだ。
差出人の私の住所と、受取人の紫先生の住所。
紫先生の住所として記されていたアパートはすでに取り壊されていて、私の住所だけが手がかりだったのだという。
紫先生には当然ながら前科はなかったし、意外なことに運転免許も持っていなかった。
すなわち警察のデータベースに彼のことは残っていなかった。
遺品の手紙がなければ危うく身元不明のままだったかもしれない。
私の手紙に書かれていた『むらさき先生』というのが、教師を指すのか医師を指すのかはたまた別の職業なのかも、警察には分からなかったらしい。
最終的に私へ連絡が来た。
とっくに忘れていたのに。
昔の失恋なんて忘れ去って生きていたのに。
たしかに紫先生が引っ越したらしいというのは私の記憶にもあった。
その頃には私にはもう紫先生は必要なくなっていた。
だから引っ越し先の住所は知らないし、手紙も出していない。
あれから二十年近くが経ったというのに、一患者に過ぎない私の手紙を持っていたことに驚く。
紫先生が何のつもりで私からの手紙を持っていたのか、私には分からなかった。
「……かつての勤務先なら分かります。そちらに連絡を入れてみますか?」
「お願いします」
紫先生に家族がいるのか、私は知らなかった。
ただ伴侶や恋人がいなかったのは知っていた。
紫先生が変わっていないのなら、今もいなかったのだろう。
警察官に聞こえないよう小さく訊ねた。
「……今頃になってあなたはようやく藍さんのところに行ったんですか?」
私は思い出す。
二十年も昔の失恋を思い出す。
あの頃の私は、入院患者だった。
まだ8才。遊びたい盛り。
毎日、病院の中で退屈していた。
その中で紫先生のことだけは好きだった。
8才の青井愛は毎朝、朗らかに紫先生に挨拶をしていた。
「紫先生、おはよう!」
「はい、おはよう。愛ちゃん。じゃあ診るね」
紫先生はわたしのパジャマをめくる。
冷たい器具がわたしの肌に触れる。
くすぐったい。
いつもの行為。
手慣れた動作で紫先生は一連のチェックシートを埋めていく。
「はい、オーケー。今日も一日元気に行こう」
紫先生の微笑みはいつも柔らかい。
私はその笑顔が好きだ。
「元気に、なんて入院患者に向ける言葉じゃないよ」
私は生意気にもそう答える。
「そうだね。それでも心だけは元気で行こう」
「はあい」
わたしは口を尖らせて返事をする。
入院生活はわたしには長かった。
飽きるほど、すり切れるほど、長かった。
わたしは愛想のない子供だ。
わたしは生意気な子供だ。
ただ、紫先生にだけ愛想がよく、懐いている。我ながら分かりやすい子供。
それを紫先生がどう思っているのか分からない。
扱いやすいとなめているかもしれない。
無邪気な子供の親しみだと受け入れているのかもしれない。
わたしには分からない。
わたしには紫先生がどう考えてるかはどうでもよい。
毎朝、紫先生と会って話をする。
それだけでよい。
その時間が幸せ。
あの頃の私は、幸せだったはずだ。
小児病棟のプレイルームを私はほとんど利用しない。
あそこにいるのは子供だ。
わたしは子供のくせに子供が嫌いだ。
うるさくて、生意気で、何考えてるのか分からなくて、嫌いだ。
そんな私の暇つぶし相手は紫先生だ。
忙しいはずの業務の合間を縫って紫先生は私に会いに来てくれる。
どうして会いに来てくれたのか、今振り返ってみると、分からない。
紫先生は暇ではなかったはずなのに。
「青い川に落ちる夕日を見たことはあるかな、愛ちゃん」
「うーん」
わたしはないと即答したくなくて返答を伸ばす。
ないと答えたらお話が終わってしまう気がする。
紫先生の言う夕日をわたしは見たことはなかった。
そもそも川をきちんと見た記憶もそうない。
川にも夕日にも興味がなかった。
入院する前からそうだった。入院した後も恋しく思ったりはしない。
紫先生はわたしの返答をゆっくり待ってくれる。
「海じゃダメ?」
苦し紛れの返答は明後日の方向。
「ダメらしい」
紫先生の回答は不思議な回答。
「どうして?」
「どうしてだろうね」
紫先生は遠い目をした。
紫先生はたまに遠い目をする。
わたしではないどこかを見る。
その目は嫌いだ。
紫先生のすべてが好きだけど、その目だけは嫌いだ。
それはある日の朝だった。
「ねえ、紫先生、寝不足? 目が赤いよ?」
今なら分かる紫先生は泣いていた。
「僕の世界に赤が混じる時、それは痛みに耐えかねて血を流す時だけなんだ」
紫先生の返答は摩訶不思議だった。
子供への返事とは思えなかったし、大人の返事とも思えなかった。
「怪我したの?」
わたしは分からないなりに紫先生を心配する。
「うん、そうだね。ひどい痛手を負ったんだ。この傷はしばらく癒えなそうだ」
「大丈夫?」
「大丈夫だよ。大人になるって言うのは、傷つくってことだからね」
「わたしははやく大人になりたい」
「おや、それは、どうして?」
その頃には紫先生の目の赤みは引いていた。
微笑みを取り戻していた。
「うーん……内緒」
きっとわたしの赤く染めた頬から、わたしの内緒の気持ちに紫先生は気付いていただろう。
それでも優しく分別のある大人な紫先生は、優しく笑ってわたしの頭を撫でるだけだった。
本当にあの人に分別はあったのだろうか。
今となっては疑わしい。
子供にあんなことを言ってしまえる大人がまともなはずがない。
その日の紫先生は最初から遠くを見ていた。
「恋は愛より出でて、愛より恋し。恋は愛これをなして、愛より篤し」
紫先生は私を見ていなかった。
誰を見ていたのか、今なら分かる。
その時の私は分からなかった。
自分を見てくれていないことすら、分からなかった。
紫先生がそこにいてくれるだけで満足していた。
「紫先生なあにそれ」
難しい言葉にわたしは困る。
「先生の好きだった人の言葉」
「好き……」
だった人。
わたしの心はざわめく。
紫先生。
紫先生に好きな人がいた。
わたしの心は痛んで、顔はいびつに固まる。
「どうしたの、愛ちゃん」
「……どうもしないよ」
わたしはその日、紫先生に嘘をついた。
「多分あの人はね、言いたいだけだったんだと思うんだ」
「そう、なんだ」
私の返事はこわばっていた。
今なら言える。
いい大人が子供に好きだった人の話なんてするな、と。
「夢を見るんだ」
聞きたくない。
「好きだった人の夢を見るんだ」
紫先生が好きだった人の話なんて、聞きたくない。
「…………」
わたしは聞きたくなかった。
どうしてわたしにそんな話をするのか、分からなかった。
私がそんな話を聞かなければいけないのか分からなかった。
そしてある日、私はそれを見つけた。
「この世界で僕は、きっと誰にも愛されず死んでいくんだね」
僕は君に問いかけた。
「それでもいいじゃない。私は、私を愛してるわ。あなたも自分を愛せばいいのよ。そうすれば世界は薔薇色に輝くの」
君は輝く瞳でそう返した。
「僕の世界に赤が混じる時、それは痛みに耐えかねて血を流す時だけなんだ。それ以外はすべて青色。僕の視界は、夜の闇にまぎれるように、暗く青に染まるのさ」
目の前の藍色のように。
「藍色なんて青にも勝てないのよ。でも、そうね、そういう理屈なら、あなたの血は紫色なのでしょうね」
「血すらも?」
「血すらも!」
そう言って、君は空に手を突き上げた。
そうして幸せそうにくるくると回る。
まるで無邪気な少女のようだった。
その姿に僕は微笑しながら、君の少し前の言葉に反論する。
「いいじゃないか、青色も、青春の色だよ」
「愚かな色よ」
「青々しく芽生える草木の色だよ」
「それは緑色よ」
「身も蓋もないね」
「緑色はもちろん、藍色も紫色も、植物の色かもしれない。でも、本物の青色はお空にしかないの」
「君が今、見上げている?」
「そう、あなたに目も呉れずに見上げている、お空に」
「嫉妬しちゃうな」
「人を愛したことなんかないくせに」
「それでも僕は君に愛されたいんだ」
「無理よ」
君はきっぱりと僕に告げた。
「私は私一人しか愛せない。私の世界には、私しかいない」
「その世界に、僕は行けないの?」
「行けないの」
「どんなに望んでも?」
「無理なものは、無理なの」
「どうして?」
「だって、私、もう死んでるのよ?」
「ああ」
そうだ。それは、夢だった。
恋しい彼女の夢なんだ。
かつて僕が恋をした、あの子の夢なんだ。
もう届かない世界の夢だったんだ。
「青いお空を見上げて、私を思い出さないで。青いお空には、私はいないの。私はもう灰色の冷たく暗い石の下。永遠の安寧に身を沈めたから」
「僕も、そこへ行きたいんだよ」
「だめよ。だめ、絶対にだめ」
冷たく鋭い、死者からの拒絶。そして微笑み。
「あなたはゆっくり来なさい。そうしたら私、あなたを深淵から愛してあげるから」
その言葉は藍から告げられた言葉じゃなかった。
僕が望み、君の口に言わせてしまった言葉だった。
だから僕は夢の終わりが近いことを悟った。
「僕は、君を、愛してるよ」
「嘘つき」
嘘でもいいんだ。
愛してると告げてみたかったんだ、君に。
その日記は紫先生が目を赤く腫らしてた日のものだった。
「…………」
わたしと藍さんは似ていたのだろうか。
読み終えて何故かそう思った。
紫先生がわたしのことを見ていたことはあったのだろうか。
わたしはその後よく分からない感情にふさぎ込んだ。
そんなわたしに紫先生は困った顔をした。
困った顔をさせることにわたしは成功した。
「欲しいものがあるのなら、言って御覧。なんでも叶えてあげるよ」
物で釣ろうだなんて紫先生は愚かにもほどがある。
今ならそう言える。
そして私の返答はより愚かだった。
「わたし、わたし……あなたに、愛されたい」
「……? 愛してるよ?」
心底、分からない、紫先生はそういう顔をした。
「嘘」
そう、そんな言葉は、嘘なんだ。
「知ってるの。わたし、ちゃんと知ってるの。あなたは誰も愛せない」
紫先生は何も返しては来なかった。
不思議な表情で固まっていた。
怒ったわけでもない悲しんだわけでもない。
今の私はあの表情の意味をなんとなく知っている。
虚をつかれた。というのだあれは。
それから数ヶ月して私は退院した。
病気は完治したと言われた。
『むらさき先生へ
お元気ですか。
退院してからもう3ヶ月経ってるなんて嘘みたいです。
わたしは元気です。
学校はやっぱり楽しくないです。病院が恋しいです。
むらさき先生に会いたいです。
どうぞお体に気をつけて。あおいまな』
長い間、入院していた私が学業についていくのは大変だった。
それでも私は何故かついていこうと努力した。
もしかしたらあの頃の私は医者になりたかったのかもしれない。
その理由を問われればきっと模範解答をしただろう。
「自分を助けてくれたお医者さんみたいになりたいです」
そう答えただろう。
でも違う。
私が医者になりたかったとしたら、それは結局また紫先生に会うためだった。
しかしそれからさらに長い年月が経って、私は気付けば紫先生のことを忘れていた。
認めなければならない。
私は、不幸であったと。
いや、私たちは、不幸であったと。
惨めであったと、哀れであったと、愚かであったと。
どうしようもなく、悲しい存在であったと。
私は錯覚していた。
紫先生だけが気付いてくれたと思っていた。
紫先生は何を言えばいいのかを知っていた。
私にどう振る舞えばいいのかを知っていた。
私を愛しているかのように行動することなどあの人には他愛もないことだった。
他愛もないことで、愛もないことだった。
紫先生は私に何でも与えてくれた。
優しさも、喜びも、生きる意味も、恋心も、抱擁も、すべて紫先生があの頃の私に教えてくれたものだ。
それなのに、紫先生は私を愛してはくれなかった。
紫先生はたった一人の誰かに愛を捧げて枯れ果てた人だった。
人は愛なしでは生きていけない。
だけど、愛より先に恋を知ってしまった人間は、どう生きていけばいいのだろう。
紫先生は愛を知る前に恋を知った人だった。
知ってしまった人だった。
私の知らない世界で、あの人は恋をしていた。
その恋が失恋に終わることを知っていても、あの人は恋をするしかなかった。
愛の模造品としての恋を、あの人は追いかけていた。
あの人と私が出会ったのは、あの人が失恋をした直後だった。
訪れたのは、甘い甘い蜜月の時間。
私が幸福だと信じていた時間。
それも、すぐに終わった。
終わって愚かにも忘れ去って、そして気付けば紫先生は死んでしまった。
この世界から消えてしまった。
もう、どこにもいない。
私に愛を教えることなく、あの人は旅立った。
私は認めなければならない。
私はかつて不幸であったと。
私はすべてを思い出し、そのすべてをため息で押し流そうとした。
しかし私には感傷に浸っている時間などなかった。
一切の配慮がない淡々とした警察官の声が事務的に物事を進める。
「では……そういうことで、自殺ということになると思いますので、諸々の手続きをお願いできますか、青井刑事」
「……ええ、もちろん」
不思議だ。
未来の展望などなかったこの私が刑事をやっている。
そしてあなたの遺体と対面している。
不思議だ。
あの頃の私にこのような未来の展望などなかった。
そして私は今も佇んでいる。
大好きな紫先生の顔を眺めながら佇んでいる。
「もう二十年も経ったのにね」
私はまだ紫先生のことを紫先生と呼んでいる。
苦笑して私は電話をかけるために、部屋から立ち去った。
「こちら、警視庁の者です」
ボロボロになった診察券を取り出し、私は電話をかけた。
かつて紫先生が勤めていた病院。
かつて私が入院していた病院。
私と紫先生の思い出の場所。
『……大学病院です』
「二十年ほど前にそちらの小児科に勤務していた紫……先生についてお電話申し上げました」
『少々お待ちください』
二十年というのは相当の月日だ。
はつらつとした青年の顔にはしわが刻まれ、幼かった少女はすり切れた大人になった。
あの頃に働いていた人の中にはもう亡くなっている方だっているかもしれない。
私はあの頃のことを思い出そうとしたが、紫先生以外の人間は顔に靄がかかったように何も思い出せなかった。
「……薄情」
職業柄、人の顔はよく覚えている。
それなのにあの頃のことを私は覚えていない。
幼さを言い訳には出来ない。
あの頃の私の世界には紫先生しかいなかったのだ。
『もしもし? 確認は取れましたが、紫がいかがなさいましたか?』
「ああ、もしもし。実はですね」
結局、紫先生に親族はいなかった。
私は仕方なく諸々の手続きを引き受けた。
紫先生はあの後、大学病院を辞めていた。
言い渋る受付からなんとか聞き出したところによると、どうもまた少女をたぶらかしたらしい。
そしてその少女は私や藍さんとは違った。
黙ることをしなかったし、死んでしまうこともなかった。
臆面もなくその恋心を親にひけらかし、紫先生は病院を追われた。
さすがに紫先生もその程度の理由で死んだわけでもないだろう。
そもそもそれから10年近く経っているらしい。
……その少女は紫先生が死んだと耳にしたらどう思うのだろう。
耳に入らなければ良い。
それは思いやりではない。ただの独占欲だと私は自覚できた。
大人になった私はあの頃と違う。
自分の感情に名前をつけられるようになっていた。
我ながら思考に面白みがなくなってしまったと思う。
数日後、休日、私は橋の上に来ていた。
ここに置いてあったという遺書の文面を思い出す。
『空が綺麗なので川に落ちます。
僕は青い川に落ちた夕日だと、あの人が言っていたので。
愛ちゃん、面倒なことに巻き込んでごめんね。紫』
「……遺書、ね」
紛れもない遺書である。
しかしあまりにもシンプルな書面だ。
知らない人が読めば何のことやらとなるだろう。
藍さんのことを思っているくせに、藍さんの名前を一切出さない遺書。
結局のところ、紫先生はずっと死にたかったのだろう。
今、私が途方もなく死にたくなっているように。
失恋の痛手をいつまでも引きずっていたのだろう。
紫先生の死が今だったことに特に意味はないのだろう。
ただなんとなく、今だったのだろう。
いつか私にも紫先生と同じように踏み切りたくなる日が来るのかもしれない。
今はまだそうではないというだけで。
「……むかつく」
最後まで私は置いていかれたのだ。
あの人は私を見てなどくれなかったのだ。
しかし紫先生の死に添えられた幼い私の手紙がある。
紫先生が自分の身元を明かすために遺した一通の手紙。
それだけが私をここにつなぎ止めている。
どうして私だったのだろう。
どうしてあの手紙だったのだろう。
あんな変哲のない手紙だったのだろう。
「……私が引っ越していたら、ずっと身元不明だったかもしれませんよ?」
それは馬鹿馬鹿しい問いかけだ。
たぶん調べたのだろう。
もしかしたら家の近くまで来ていたのかもしれない。
私の姿を目に収めることもあっただろうか。
その上であの人は私には絶対に会わなかったのだ。
会ってくれなかったのだ。
未練も残さず死んでしまったのだ。
「…………」
それでも紫先生は、私に遺してくれた。
もしかしたら私はようやく紫先生を甘えさせてあげられたのかもしれない。
あの頃は甘えてばかりいた私が。ようやく。
「……私、少しはお役に立てました?」
ぽつりと呟かれた言葉は橋の下へと落ちていった。
そして誰にも拾われず川を流れていった。
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