「みんな愛してるから」第三章 理②
連休初日に、兄は実家に帰ってきた。いてもたってもいられず、理は予定時刻の一時間も前からバス停で待っていた。
「お帰り、兄さん」
まさか待っているとは思わなかったのだろう。文也は目をぱちぱちと瞬かせていた。
「サプライズ成功だね」
ぼそりと言うと、文也は嬉しそうに微笑んだ。
「何分待ってたんだ?」
「そんなには待ってないよ」
文也は理を軽く小突いた。嘘を見破られたのが嬉しくて、理は兄の荷物を持って、先に歩き始めた。
「荷物、軽いね」
「ん? うん。だって服とか、理のを着ればいいだろ」
理はまじまじと、文也を見つめ、それから自分の洋服が詰められているタンスの中を、思い出した。
ダメだ。兄に着せられるような服なんて、ない。襟ぐりが伸びたり、少しシミが残っているTシャツなんて、着せられるわけがない。
毎回、弟の気も知らず、適当な服を着まわす文也を見る度に、「俺の服を着ている!」と、興奮を隠すのも大変なのだ。
家までの道のりを歩いていると、ピロリン、とスマートフォンが通知音を鳴らした。
「歩きスマホはよくないぞ」
そう言う兄は、アプリゲームなどを一切やっていないので、連絡を取り合うだけの端末になっており、スマートフォンに依存する人間のことを、理解できない。
「大丈夫だよ」
連絡してきたのは、明美だった。今日早速、夏織を呼び出して話をしたらしい。
『もしかしたら、今もまだ続いているかも』
一応は明美にも、女の勘とやらが備わっているらしい。匂わせた昔の男の存在に、夏織は妙な反応をしたという。
やっぱりな。
理は唇を緩めた。これで連休中、夏織は兄に連絡を取ることもないだろう。「浮気」というキーワードは、女を臆病にする。「する」側ならなおのこと。
弟の表情変化を、文也は見逃さない。
「なんだか嬉しそうだな。彼女からとか?」
「まさか」
彼女なんていない。いらない。俺には兄さんがいてくれたらいい。
本心はすべて、長い前髪と眼鏡の奥に隠して、理は最愛の兄に向かって、微笑んだ。
久々に帰省した文也に対して、母親はそっけなかった。
「何しに帰ってきたのよ」
睨みつけられ、冷たい声を浴びせられても、文也は動じない。彼女の向かい側に正座をして、きちんと話をする体勢を整えた。
「何しにって、理から聞いたよ。あんまり体調がよくないんだって?」
すると母親は、複雑な表情を浮かべた。文也に心配されるのは癪だが、そのきっかけが理の思いやりであることには、喜びを覚えたのだろう。二人のことを、少し離れたところから見守っていた理には、母の考えが、手に取るようにわかった。
理が物心ついたときには、すでに母は、兄のことを疎んじていた。理の誕生日には、わざわざ仕事を休み、ごちそうを作るのに、文也のときはプレゼントも、ケーキすらも用意しない。
文也が大人になってからの話ではない。まだ彼が、小中学生の時期から、母親は文也には何もしなかった。
ネグレクトまでいかないのは、必要最低限の衣食住、学校に関することについては、世間体を気にしてきちんと世話をしていたからだ。
その分、父は文也を可愛がった。そのせいで、ますます母は、文也に当たり散らし、理を溺愛した。
文也が実子ではないというのなら、疎ましく思う理由もわかる。しかし、兄と理は、残念ながら同じ両親の血を引いて生まれた正真正銘の兄弟だ。一縷の望みを抱いて、こっそりDNA鑑定をしたから間違いない。
一時期は実の兄に向ける感情を持て余して荒れたが、今はもう、吹っ切れて行動をしている。
「別に、あんたの世話になるほどじゃないよ」
「でも、母さん仕事辞めてから、ほとんど外に出なくなっただろ? 運動不足もあるんじゃないかな」
バン、と母がテーブルを叩いた。理は肩を跳ね上げたが、文也は慣れているのか、予測済みであったのか、冷静だった。
「母さん」
「うるさい!」
でっぷりと肥えた身体を、よっこらしょ、と持ち上げて、どすどすと足音を立て、母は別の部屋に行ってしまった。
文也は小さく溜息をついて、理に視線を向けた。やれやれ、という感情がありありと浮かんでいたので、理もまた、同じように苦笑した。
「相変わらずだなあ」
すべてを諦め、他人事を眺める口調だった。もう二十年近くも、文也は母から嫌われている。憎まれているといっても過言ではない。
兄は、父にとてもよく似ていた。顔も背格好も、声も、そして、表面上は性格も。
だからこそ、母は兄を毛嫌いした。
理は両親が仲良くしている姿を、一度も見たことがない。子供の作り方を知ってからは、あの不仲な両親が、どうして自分を産もうと思ったのか、と理解に苦しんだ。
文也は相当長い期間を、一人っ子として過ごしている。二人目が欲しくて頑張って、どうしてもできなくて、ようやく授かったのが理だというのならばわかるが、そうではないのだ。
成長するにつれて、父の浮気癖のせいで、母が苦しんでいたのを知った。離れていく父の心をどうにかして繋ぎ止めようと、母は理を産んだ。
ひとりよりもふたりの方が、夫に与える罪悪感は大きくなるという狙いであった。結局、子はかすがいというのは、まったくの幻に終わったが。
文也は両親の不仲を気にしていた。善良な彼は、母のサンドバッグにされても、大きく反発したりしなかった。
理は、そんな兄を、母の腕に抱え込まれたまま、見続けていた。健気に耐え続ける兄は、誰よりも尊く、素晴らしく見えた。
「理にも、苦労をかけるね」
文也は、自分よりも背が高い弟の頭を撫でた。小さい頃とまったく変わらずに、兄は理を可愛がる。その優しさが、理の想いを募らせる。
母は自分を溺愛してくるが、昔から好きではない。表面上はおもねっているが、兄に対する態度をずっと軽蔑している。
だがそれ以上に、理にとっては父親が邪魔だった。
母が邪険にすると父は兄を可愛がった。母さんがごめんなァ、と代わりに謝罪して、親をまっとうしているつもりになっていたが、元凶はそもそもこの男だ。土産を買って帰ってくる度、文也がどんな顔をしていたのか、まるで気づかないような男だった。
兄のことを愛しているのは、自分だけでいい。父も、他の誰も、文也を愛する人間は、いなくていい。
――相手のことを想って、引くときは引くのが愛っていうんなら、あたしはイヤ。あたしの好きなようにして、何が悪いのよ。あんたも好きな子がいるなら、絶対引いちゃダメよ。
そう教えてくれた人もまた、文也に好意を寄せていた。
理は、彼女の言葉に従った。
あの日、兄を愛した人間はふたり、いなくなった。そのときのことが忘れられ宇、今も身を引いたりせず、裏で画策している。すべては文也を守るためという免罪符がある。
連休最終日の昼間に、兄は自分のマンションへと帰っていった。理はただ微笑んで、見送った。次は夏休みだね、というと、文也は頷いた。
次に兄が帰ってくるまでには、決着をつけておきたいものだ。
いただいたサポートで自分の知識や感性を磨くべく、他の方のnoteを購入したり、本を読んだりいろんな体験をしたいです。食べ物には使わないことをここに宣言します。