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「みんな愛してるから」終章 文也②

 母に疎まれた文也は、父に溺愛された。

 自分とよく似た長男、自分よりも賢い長男。末は医者か学者か、と酔った父は文也に頬ずりをし、辟易とさせられた。

 ところで父は、愛の多い男であった。母との婚姻関係は継続しているものの、チャンスさえあれば、他の女とよしみを通じることに、一切の罪悪感を抱かない。

 男の浮気は甲斐性で、それを許すのが女の甲斐性、いい女の証。

 昭和の映画の価値観を平成に引きずった男で、彼がそれだけの地位や資産を築けていたのならば認められることもあっただろうが、あいにく普通のサラリーマンであった。

 文也は、時折父の女たちに会うことがあった。

 誰も彼も、「真実の愛」とやらを口にして、父にしなだれかかった。小学生の息子の目の前で、ディープキスをかました女もいる。父は拒まなかった。

 鏡を見て、文也は思う。

 自分と同じ顔の父親は、どうしてあれだけ、複数の女を虜にするのだろう。地味で、よく言えば善良さが浮かぶ顔。よほどの武器を持っているに違いない。

 それが口説き文句なのか、ハイセンスなプレゼントなのか、あるいはもっと即物的な何かなのか、文也は知りたくもなかった。

 父親が紹介する彼の愛人――という言葉を、父たちは好まなかった。彼女、という扱いを女は喜んだ――たちは、その顔ぶれが定期的に変わった。文也の知らない女もいただろう。

 あれだけ愛を語らっていたのに、その関係は永遠ではない。

 文也にはそれが、大変空々しく、恐ろしいことであった。今はこれだけ自分を愛してくれる父も、もしも文也が彼の意に沿わぬことをひとつでも犯せば、冷たくなるに違いない。

 母からは育児放棄すれすれの扱いを受けている今、父にまで捨てられたら生きていけない。

 文也は気を張り詰めて生きてきた。小学生の頃から優等生を演じ、父親の意向には黙って従った。母親は文也に興味がないので、父のためだけに生きた。

 学校では頼りにされるものの、「つまらない奴」という評価を受けているのも知っていた。それでよかった。クラスメイトは、ただ同じ教室で授業を受けている人間というだけで、仲間でもなんでもない。どんな風に思われようと、関係ない。

 唐突に終わりが訪れたのは、高校生のときだった。

 少し前から、父と理が急接近していることに気がついた。弟は、父と喋ると母親が機嫌を悪くすることを知っているから、必要以上に自分から近づくことはなかった。父もまた、理は母のもの、文也は自分のものと思っている節があったから、彼らがこそこそと母の目を盗んでまで話をしていることに、違和感があった。

 文也は何もしなかった。ただ、成り行きを見守っていた。

 彼らの間で交わされる紙片は、ただのメモ紙じゃない。理から父へと手渡される、ハート型に折られたそれは、通信手段を持たない小学生のとき、授業中にこっそりと回ってきたものと同じだった。

 理は不器用で、父への内緒の手紙を、あんな風に自分で折れるわけがない。誰かの手紙を仲介している。文也は確信していた。 

 ハートの手紙を受け取った日の父は、すこぶる機嫌がよかった。文也が「何かいいことあった?」と聞けば、彼は咳払いで「何を言っているんだ。いつも通りだよ」とごまかす。

 これまでの、付き合いをひけらかしてきた女とは扱いが違う。何か厄介な事情でも抱えているのだろうか。相手が既婚者だったことも何度かあったが、そのときですら気にしていなかったのに?

 首を捻りつつ、文也はやっぱり何もしなかった。

 ある日、父が「今日は遅くなる」と言った。それはいつものことで、母は返事もしない。カレンダーを見れば、今日は夜勤の予定になっていたから、最初から理の分以外は夕食を作る気がない。

 どうしてこの人たちは別れないのか、理が産まれた頃からずっと思っていた。子どもは愛し合う者同士から産まれるはずなのに、憎しみ合っている彼らの間から、ふたりも息子が生まれるなんて。

「お母さん。今日、友達の家で晩ご飯一緒に食べようって言われたんだ」

 帰宅した理が、母にそんなことを言った。母親は当然渋った。

 約束したんだ。僕が嘘つき呼ばわりされて仲間はずれにされたら、母さんのせいだ!

 珍しく、弟が食い下がった。息子に嫌われるのを何より恐れる母親は、「女じゃないでしょうね」というおぞましい確認を何度も重ねた上で、渋々許可を出した。

 普通の親ならば、と文也は思った。

 お誘いを受けた家のことを子どもに聞き出して、確認と礼の電話をするだろう。その上で、菓子折を持っていくし、子どもを送り迎えする。それをしない辺り、やっぱりこの人は、母親としてどこか壊れているのだ。

 それにしても、理である。

 小学校で彼がどんな風に過ごしているのか知らないが、放課後に遊びに行くこともない弟に、夕食に快く招待してくれる友人がいるとは考えられない。

 これは何かある。

 直感に従い、文也は弟の後をつけた。理もまた、父の後を追っていた。奇妙な父子の追いかけっこには、一番後ろの文也だけが気がついている。何も知らない父親が滑稽だった。

 父は人気のない場所で、若い女に声をかけた。若い、いや、若すぎるだろう、さすがに。

 相手は同じマンションに住む女子高生だった。派手な化粧に、極端に短くしたスカートの制服。母親があまり家にいないのをいいことに、いつも違う男を部屋に引き込んでいるらしい。

 あくまでも噂だ。実際、彼女が年上の男にしなだれかかっている図は見たことがあるが、一度きり。とっかえひっかえしているかは、判断がつかない。

 近所に住む友人などは、彼女を見る度に「一度お相手してもらいたいもんだな」と、諦念の籠もった声で言った。彼はあまり、見目がよくない。そしてそれを自覚している。 

 文也は何度か、彼女と顔を合わせていた。媚びる目つきで、パチパチと瞬きをされ、なるほど、コレが手なのだと感心した。伝わってくるのは好意ではなく、行為をしたいという性欲のアピールだ。

 彼女は文也とも、セックスをしたがっていた。本当に節操がない。自分は童貞で、女を悦ばせる術など知らないというのに。

 父親は、女子高生と揉めている。一方的に父が言い寄り、彼女が嫌がって抵抗をしている。揉み合っている様子を、理は物陰から見ていた。

 文也のいる場所からは、ふたりのやりとりの詳細まではわからない。ちょうど死角になっていた。だから、あっと思ったときにはすでに遅かった。

 だらりと四肢を弛緩させ、地面に転がった女は、すでに事切れている。

 自分でやったことなのに、父は錯乱しているようだった。

 自首するように説得しなければ、と一歩踏み出しかけた文也よりも先に、理が父の前に姿を見せた。

 いくつか言葉を投げかけた理に、父はゆっくりと首を横に振る。そして死体を担ぐと、車に乗せて、どこかへ走り去った。

 それが、父を見た最後だった。車は樹海近くで見つかったそうだ。父はもう、生きていないだろう。

 そう思ったときに文也の心を満たしたのは、深い安堵であった。

 ――これでもう、二度と父の愛を失うかもしれないと、怯えることはない。

 多少の情があればこそ結婚したはずの両親が、不仲であるのを見続けてきた文也は、人の想いに永遠など存在しないと確信していた。学校に目を向けてもそうだ。やれ誰と彼が付き合い始めただの、別れただの。そんな話は、ありふれている。

 けれど、永遠はここにあった。死こそが永遠だ。死んでしまえば、その愛も凍結され、文也に一生の気持ちを捧げてくれる。

 父の死は、文也に光明を与えた。そしてその死のきっかけとなった理にも、文也はこれまで以上の愛着を覚えた。

 理は可愛い弟で、自分を慕ってくれている。それでもやはり、いつか自分を嫌い、憎むようになるかもしれない。理の顔は、母が若く美しく、父と出会う前の、憎悪を知らなかった頃の写真によく似ている。

 彼が自分に愛を向けている間に、死んでもらわなければならない。弟からの愛がなくなるのも、恐ろしいのだ。

 自殺がいいな、と文也は思った。

 直接手を下し、死を、愛を受け入れる顔を脳裏に刻み付けるのも捨てがたいが、首に手をかけた瞬間、好悪が逆転するかもしれない。怒りや憎しみを永久に向けられるのは、想像するだに耐え難い。

 やはり、自ら愛に殉じてくれるのが一番だろう。

 その日を夢見ながら、文也は生きてきた。

 自分に想いを寄せてくれた女は、決して多くはなかった。少ないからこそ、彼女たちの唐突な死は、「偶然」の一言で済ませられた。

 実際には、文也の思惑通りに動いた理によって、個人情報を晒され、誹謗中傷を受けて自殺した、立派な殺人であったにもかかわらず。


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