「みんな愛してるから」第一章 夏織①
『速報です。午後二時、※県S市で、女性が男に襲われ、ナイフのようなもので刺されました。男は現行犯逮捕され――……』
「結婚を前提に、お付き合いしてください」
深々と頭を下げた男のつむじを、夏織はぼんやりと眺めた。
あ、二つある。なんて、どうでもいいことに気がつくのは、余裕があるからというよりは、現実味が薄いからだった。
夕暮れのビーチや、おしゃれなレストランでの告白をいいと思う女もいるし、告白なんてどこでどうされてもいいと思う女もいる。
夏織は自分のことを、後者だと思って今まで生きてきたが、実は前者寄りの感性の持ち主だったらしい。
時刻は早朝、七時。土曜日の今日は仕事が休みで、いつもならまだベッドの中でうつらうつらとしている時間帯だ。
内心の動揺を抑えつつ、いそいそとやってきたファミレスのモーニング。目の前の男は率先して、ドリンクバーで夏織の分まで飲み物を入れてきてくれる。そして、コーヒーを一口飲んでから、いきなり頭を下げたのである。
「あの、顔を上げてくれない?」
見知らぬ仲ではない。職場では同期だ。だが、同じ部署ではないため、親しいとは言えない。
おずおずと上げられた男の顔を、夏織は改めて観察する。
目を引くような美形でも、また逆に、二度見してしまうような不細工でもない。特徴といえば、眼鏡をかけていることくらいだ。
事実、彼が眼鏡をかけるまで、夏織は自分の隣に寝ていた男が誰なのか、わかっていなかった。
穏やかで、地味な男。
今朝、同じベッドの上で目覚めるまで、浅倉文也の印象はそれだけだった。
今も、眼鏡の奥の目はおどおどと頼りなく泳いでいて、女を引っ張っていく力強さとは無縁だ。
草食男子を食べるのが趣味、という女にはストライクゾーンなのだろうが、あいにくと、夏織の好みとはかけ離れていた。
男はもっと、力強く私をリードしてくれなくちゃ。
だが、タイプとは関係なく、セックスすることは可能だ。性欲の高まりと生理的嫌悪の有無、酔いも手伝えば、ワンナイトは夏織には珍しくもないことだった。
「あの。浅倉くん。本当に私たち、その……」
声をひそめての問いかけに、文也は再び、頭をがばりと下げた。額がテーブルにくっついている。
その反応が、すべてを物語っていた。夏織は彼に気づかれないように、溜息をついた。落胆ではなく、感嘆の意味合いで。
真面目が服を着て歩いているような文也が、いくら酒に酔った勢いとはいえ、恋人関係にない女と肉体を重ねるなんて、と。
行為がまるで記憶に残っていないのは、少々もったいないと悔しくなる。この男は、自分をどんな風に抱いたのか。文也に尋ねても、真っ赤になるばかりで、まともな返答はないだろう。
酔っていたとはいえ、惜しいことをした。いつもはこんなことないのに。
「ごめんなさい。責任は取ります」
うわごとのように呟く文也のつむじを見つめながら、夏織は野菜ジュースを飲みほした。
昨夜、泥酔して強引に事に及んだのは、間違いなく自分の方だ。
定年以外でなかなか退職者が出ない役所勤めだが、それでも毎年、誰かは辞めていく。
三月の転居シーズンで、窓口がパンクするほどの繁忙期を迎えていた。転入、転出、エトセトラ。
なんとか業務をこなして、年度末の慰労会と送別会を兼ねた飲み会が行われた。
飲み会の主役は新卒で入って一年、甘えた声で媚びることだけやたらと上手い女だった。一切成長することなく、役立たずが辞めていくのだ。
彼女の指には、大粒のダイヤモンドが輝いていた。顔の横に手の甲を持って行って見せびらかしている彼女を見て、「芸能人気取りかよ」と面白くない気分になった。
それは夏織だけではなく、独身女性の総意だったように思う。事実、昨日の送別会で、主役の彼女の周りを取り囲んでいたのは、同期の子や、彼女らの若さに釣られてやってきたオッサン職員ばかりだった。
彼女の婚約者は、誰もが知る一部上場企業で働いている。東京の本社勤務になるのを契機に、プロポーズされたのだと、惚気られた。
聞くところによると、婚約者は夏織と同じ年頃、つまりまだ二十代だ。中年男なら、留飲も下がるというのに。
その若さで本社に栄転になるということは、将来も期待されている。玉の輿、という奴だ。現実味のある、一番おいしいレベルの。
なるほど、あの指輪も余裕の表れで、これから彼女は、某女性雑誌の読者モデルのような妻となり、母となるのだろう。マックスマーラのコートに、エルメスのバッグで子どもを追いかけて草むらに飛び込むような。
羨ましい。妬ましい。都心に出るには、在来線を使って片道二時間近くかかる。中途半端なこの土地で、夏織はずっと暮らしていくのに。
かといって、安定した職を手放して、都内ワンルームひとり暮らしをする若さも情熱も、夏織にはない。何度もチャンスはあったはずだが、夏織が選び取ったのは、リスクの少ない人生だった。
生まれ育った地元で、食いっぱぐれのない公務員。新卒間もない頃はいざ知らず、最近は実家に帰る度に、同級生の出産情報を聞かされる。
今日のことを話せばきっと、「あんたも早く……」と、結婚をせかされるに違いない。ああ、嫌だ。
若い子への羨望と、自分自身への諦め。その二つが複雑に入り混じった感情を抱え込んで、夏織はテーブルの隅で、飲み放題なのをいいことに、浴びるように酒を飲んだ。
普段、そんな無茶な飲み方をすることはないが、質のよくないワインとビールと日本酒をちゃんぽんした。その結果が、意識が飛び記憶がなくなるほどの泥酔だった。
目を開けて頭がはっきりしたときには、ラブホテルのベッドの上で、裸だった。身体に感じたわずかな違和感に、酔った勢いでセックスしたのだと、すぐに理解した。
まさか相手が、文也だとは思わなかったけれど。
また頭を下げている文也に、夏織は再度、顔を上げるように言った。
恐る恐る上げられた顔は、やはり好みではない。けれど、その額にくっきりとついたテーブルの跡を見て、夏織は笑ってしまった。
もしやこの人は、私が処女だったとでも思っているのか。ヤったんだから、すぐわかるだろうに。ああ、いや、でも。
「ねえ、浅倉くんってもしかして、童貞だった?」
女に夢を見る男は、たいていこじらせている。
からかい口調になった夏織に、「ど、どうて……」と、文也は真っ赤になって、明確な回答を避けた。その態度が、まさしく答えそのものであった。
冗談のつもりだったが、本当に童貞だったのか。
……ふぅん。じゃあ、責任を取るべきは、むしろ私の方では?
丁重に断るつもりでいた夏織だったが、思い直した。
一夜の過ちを犯したきっかけになったのは、後輩が自分よりも先に、将来性のある恋人と結婚することになったから。
つまり、夏織は自分でも気づかぬうちに……いや、気づいていながら見ないふりをしていたことだが、「結婚」に、ずいぶんと焦っていたのだ。母ではなく、自分が、である。
もう一度、考える。
中肉中背で、頼りない風貌の文也だが、その分仕事は丁寧で、人当たりもよい。これから順調に、出世していくだろう。
安定した生活。それこそ夏織の望んでいた人生ではないか。
夏織はそっと、文也の手を握った。思ったよりもゴツゴツとした男っぽい手つきに、少しだけ、この男のことをいいな、と思った。
ああ、いったいどんな風に触れたのだろう。
「わかりました。結婚を前提に、お付き合いしましょう。浅倉くん……文也くんって呼んだ方がいいかな?」
にっこりと微笑む唇に、色を差していないのが残念だった。今度のデートはしっかりと化粧をして、ムードのあるレストランでしたいものだ。
そう、夏織は思った。