乱反射 8.

　金曜日の四限の講義が終わり、私は久しぶりに法学研究会の部室に顔を出すことにした。姉の事件以来、何となく行きづらくなり、部室からは足が遠ざかっていた。この前、樹梨にはサークルはほとんど活動していないなんて言ったけど、あれは嘘だ。ただ私が、行きづらくなっていたから行かない口実を作って自分を正当化しただけ。私はずるい人間だ。本当にそう思う。
　とりわけサークルの人達と仲が良かった訳では無い。もしかしたら色々詮索されるかもしれないという懸念から、行けなくなっていた。
　部室はサークル棟の三階にあり、階段を上ってすぐの場所にある。さすがに顔を出さないとまずいかなと思って行くことにしたけど、やっぱり足取りは重い。階段を上るのが面倒になったので、階段横のエレベーターで三階まで行くことにした。エレベーターは三階の隅に着く。そこから少し歩いて、部室にたどり着いた。
「失礼します」
　私は久しぶりに部室に入る。部室にいたのは、部長の石田一平(いしだいっぺい)さんと副部長の中川柚子(なかがわゆず)さんだった。
「真野さん？　久しぶり。最近来ないから心配してたよ」
　椅子に座って本を読んでいる石田さんは柔和に微笑んだ。
「久しぶり、美月ちゃん」
　本棚から本を取った柚子さんは、振り向いて同じく笑みを見せた。「まあまあ座ってよ」と石田さんに促され、私は椅子に座る。座ってから見る部室の景色は久しぶりだった。窓から差し込む暖かな日の光。法律関係の本が立派に並んでいる本棚。初めて部室に来た姉は硬い内容の本の数々に興味津々のようだった。
「何飲む？　コーヒーとか麦茶とか色々あるけど」
「麦茶下さい」
　柚子さんから聞かれて、私は答える。柚子さんは「了解」と答えて、冷蔵庫からペットボトルの麦茶を取り出し、食器棚から透明のコップを取り出した。柚子さんは私の前にコップを置き、麦茶を注ぐ。
「ありがとうございます」
　私が礼を言うと、柚子さんは「どういたしまして」と笑みを浮かべる。
　二人は私の一学年上の先輩で、私は少し憧れがある。そこらへんの法学部生に比べて断然法律の知識は持ち合わせているし、もっと学ぼうという向上心に溢れている。そんな先輩たちに憧れる。
　私は弁護士になるために、法学研究会の門を叩いた。でもそれは昔の話。今は無難に地方公務員で良いと思っている。石田さんは検事、柚子さんは弁護士をそれぞれ目指している。優秀な二人ならきっとその仕事に就ける。私はそう信じている。
「そういえば真野さん。最近どうしてたの？　何かあった？」
　石田さんは心配そうな顔で聞いてくる。「え、一平くん知らないの？」と柚子さんは驚いたような口調で横槍を入れる。そして、柚子さんは石田さんに耳打ちをした。石田さんは素っ頓狂なくらい驚いたような声を出した。
「何というか、大変だったね……。お姉さんが亡くなるって、辛いよね、きっと」
　石田さんは言葉を選んで、重々しく口にした。
「柚子さん、知ってたんですか？」
　私は柚子さんに聞く。
「そうね。あなたと同級生の子達が噂してたから」
　柚子さんは、俯きながら言った。空気が重くなった。一部始終を黙って聞いていた姉も居た堪れない顔をしているように見える。私はこの空気が嫌だった。こんな空気にさせたくなかった。こうなる事は分かっていたはずなのに。
「すみません。私、やっぱり帰ります」
　一刻も早くこの場所から逃げ出したかった。この状況は、誰も幸せにならない。ならば、私がここから消えれば良いだけ。そう思った私は椅子から立ち上がり、部室を出ようと歩き始めた。
「美月、逃げちゃ駄目。私は大丈夫だから」
　姉からさっきの表情は消えていた。私を真っ直ぐじっと見つめていた。
「真野さん、待って！」
　石田さんは私の左肩を強く掴んだ。この人は私を本気で心配してくれているのだ。
「石田さん、私……大丈夫です。今日はちょっと相談したくてここに来たんです。聞いてもらっても良いですか？」
「勿論だよ。僕らは真野さんの力になりたいから。そうだよね、柚子さん」
　石田さんは柚子さんに目配せする。柚子さんはゆっくりと頷いた。
「ありがとうございます」
　それから、私は姉の事件について二人に話した。二人は真剣なまなざしで私の話に耳を傾けてくれる。私はそれが嬉しかった。