乱反射_表紙

乱反射 5.

 日曜日の昼下がり、私たちの家のインターホンが鳴った。玄関から偶然近い場所に私はいたので、ドアを開ける。ドアを開けると、精悍な顔つきの男性が立っていた。おそらく年齢は三十代前後、スーツ姿で銀縁の眼鏡をかけて、爽やかな見た目を決定づけるほどの切りそろえた短髪だ。
「こちらは、真野香月さんのご自宅でよろしいですか?」
「はい。そうですけど」
「私は瀬戸と申します。香月さんとは、厚生労働省で一緒に働いておりました」
 瀬戸さんは堅苦しいくらい礼儀正しく話す。私は左にいた姉を見る。姉は驚いたと言わんばかりの顔をしていた。
「失礼ですが、あなたは香月さんの妹さんですか?」
 瀬戸さんは聞く。
「はい。妹の美月です」
「この度はご愁傷様でした。香月さんに線香をあげに参ったのですが、よろしいでしょうか?」
「はい、大丈夫ですよ」
「ありがとうございます。それでは、失礼します」
 瀬戸さんは革靴を綺麗に揃えて家に入った。私に仏壇の場所を聞き、リビングの隣にある和室へ向かう。姉はぼうっと瀬戸さんを目で追っていた。
「お姉ちゃん?」
「ああ、ごめん。何でもないわ」
 私は何でもない訳では無いことくらい分かった。瀬戸さんは両親に丁寧な挨拶をする。父にライターを借り、姉の仏壇に焼香した。手をゆっくりと合わせてお辞儀をした後、姉の遺影をじっと見つめた。
「ありがとうございました」
 瀬戸さんは私たち家族に深々と頭を下げてお礼を言った。瀬戸さんは冷静を保ってはいたが、どこか悲しそうだった。
「お茶でも飲んで行かれませんか? 香月の思い出話でもいかがですか?」
 母は瀬戸さんに優しくそう言った。
「いえ、大変嬉しいのですが、私はこれから急ぎの用がありますので、失礼致します」
 瀬戸さんは大きく頭を下げて、家を出て行った。
「真面目そうな人だったな。香月もあんな人が同僚で良かったな」
「そうね」
 両親はそんな会話をしていた。私は玄関に向かって、姉に話しかける。
「お姉ちゃんはあの人と親しかったの?」
「親しかったどころか、あの人は私の彼氏よ。毅(たけし)さんと私は結婚を前提に付き合っていたの」
 私は率直に驚いた。これまで、私は姉に異性の影を感じたことが無かったからだ。姉は昔から友達が多く、慕う人も多かった。それは女性だけでなく、男性も同様に。でも、恋愛関係になったという話はこれまで一度も聞いたことが無いし、生前そんな素振りを見せたことは一度も無かった。姉はずっと、男に興味が無いし今は勉強する時だからと言って、恋愛を避けているようにも見えた。そんな姉だから、私は本当に驚いた。しかも、結婚を前提に交際している男性がいるなんて、思いもしなかった。
「私さ、毅さんに悪いことしちゃったな……。黙ってあの人の前からいなくなったんだから。毅さんの顔、見れなかった」
 姉のその顔は今まで見たことの無い顔だった。どこかか弱い女の顔。いつも自信に満ち溢れていた、私が憧れと妬みを感じた姉の姿はどこにも無い。今にも泣きだしそうな顔をしていた。
「追いかけよう」
 私は思わず口に出した。姉は驚いていた。
「何、言ってるの」
「瀬戸さんを追いかけるの。まだそんなに遠くまで行ってないはずだし、お姉ちゃんはこのままで良いの?」
 姉の返答は聞かなかった。聞く前に私は玄関のドアを開けて、走り始めた。
 飛び出してみたは良いものの、瀬戸さんがどこに行ったかは皆目見当もつかなかった。姉は瀬戸さんの住んでいる場所から推測し、駅を目指しているのではないかと言った。私は姉の言葉を信じ、駅の方角へと向かうことにした。
 駅を目指して歩を進めると、あっという間に駅に着いてしまった。でも、瀬戸さんの姿は見当たらない。もういないのだろうか、それとも別の方角だっただろうか、諦めて帰ろうかとしていた時に、姉は「あ」と声を出した。彼女の目線の先にいたのは、駅のトイレから出てきた瀬戸さんだった。彼はそのまま、プラットホームへ行く階段を上ろうとしている。私は瀬戸さんに向かって走り出す。
「あ、あの!」
 私の声に瀬戸さんは振り向いた。
「あなたは……確か」
「真野香月の妹の美月です」
「そうでしたね。先程はありがとうございました。それでは」
「待って下さい。瀬戸さんは、姉のことをどう思っていたんですか? その……付き合ってたんですよね?」
 私が恐る恐るした問いかけに、瀬戸さんは俯いた。
「はい。僕は香月さんと付き合っていました。とても、彼女を愛していました。だから、今でも信じられない。目の前に香月がひょっこり現れそうな気がするんです」
 顔を上げた瀬戸さんの声は震えていた。姉ならここにいる。私はすぐにでもそう言いたかった。でも、瀬戸さんには姉の姿を見ることが出来ない。だから、彼にとって姉は完全にこの世から消えた存在。私だけが姉を見ることができ、会話も出来る。そんな不平等を呪いたくなるくらい、居た堪れなかった。姉は、家では見られなかった瀬戸さんの顔をじっと見つめている。彼女の目からは涙が溢れ、頬を伝っていた。
「また、線香をあげに家にいらして下さい。姉もきっと、いや絶対に喜んでくれますから」
 私は精一杯の作り笑顔でそう言った。
「良いんですか?」
「勿論です」
 私の言葉を聴いて、瀬戸さんは「ありがとうございます」と深く頭を下げた。そして、プラットホームへと続く階段を上っていった。

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