記憶を紡ぐ糸 第7話「平嶋という男」
病院への外来を終え、私は病院前のバス停からバスに乗り込む。この時間は人が少なく、お年寄り四人と中年男性二人しか乗っていなかった。車内は二人のおばあさんが大きな声で喋っているだけで、後の人たちは夢の中だ。
私はバスに揺られながら、流れる景色をただ見ている。時が流れていくような速さで、景色が移り変わっていく。全ての記憶を失ってからの三か月は、流れていく景色のようにあっという間だった。でも、断片的な記憶だけで、結局そこまで思い出せてはいない。焦りと不安がいつも纏わりついて、気付かない内にそれらが私の心を支配していく。
私が考え事をしている間に、バスは私が降りるバス停を知らせるアナウンスを告げる。私は、右にある降車ボタンを人差し指で押す。そしてすぐにバス停に着き、私は降り。私以外は誰もバスから出てこなかった。
私はいつも通りまっすぐ家に帰ろうと、家の方向に体を向け、そのまま歩こうとする。すると、後ろから私を呼ぶ声が聞こえてきた。聞き覚えのあるその声は、少し抜けたような感じ男の声だった。振り返ると、パグを連れた平嶋さんがこっちに歩いてきた。よっ、と彼は右手を挙げて挨拶をしたので、私は「どうも」とお辞儀で返した。パグもくぐもったような鳴き声を発した。
私は、このパグの名前を思い出して、思わず笑みが零れる。パグの名前はランディ。平嶋さんが好きだった野球選手の名前から取ったらしいが、このパグの名前には不釣合いすぎて、思わず笑ってしまった。ペットは飼い主に似るというが、ランディもその例外ではないのだ。
平嶋さんは、「あっちで話さない?」と沢山の子供たちが遊んでいる公園を指差した。私は特に断る理由が無かったので、内心面倒くさいと思いながら「別にいいですよ」と了承した。
様々な遊具が揃っている少し大きめの公園は、子供たちの笑い声と近くを通る喧しい選挙カーの声が不協和音を作り出している。太陽は本領発揮とばかりに、日差しを強め、私の肌を火照らせる。
私と平嶋さんは、ランディをリードでベンチに繋いだ後、二人で並んでベンチに座る。並んでとはいっても、多少の距離を離して座る。
考えてみれば、私たちが二人で話すのはこれが初めてだった。いつもは友一さんがいるから、私と一緒にいるのが平嶋さんだけだというのは、何とも言えない違和感を覚える。
「……初めてだよね。俺たちが二人で話すって」
平嶋さんも同様のことを考えていたのだろう。いつもは饒舌な彼の口調が、どことなくぎこちない。
「そうですね……。何か、変な感じ」
私が率直な感想を述べると、平嶋さんは「前から聞きたかったんだけど……」とぽつりと口を開いた。
「若葉ちゃん、記憶が無いってどんな気分?」
意外だった。友一さんならともかく、平嶋さんからこんな質問をされるとは予想していなかったから。
「……不安です。とても」
「不安?」
平嶋さんは再び質問する。
「はい。昔はあったはずの記憶が完全に抜け落ちて、何も思い出せない。自分がどんな人間だったのかも分からない。家族や友達の名前も思い出せなくて、一体私は誰なんだろうって不安になります」
記憶が無いということは、まるで記憶を紡いでいた糸がプツンと切れたような感覚だ。頭の中に浮かぶのは断片的な記憶だけで、それがどのような繋がりをしているのか分からない。分からないことが、怖くて堪らない。いつも恐怖と不安に押しつぶされそうだ。
「怖いな。自分が記憶喪失になったらって考えてみたけど、怖いという言葉しか出て来ないよ。家内やこれから生まれてくる俺の子供、八神や若葉ちゃんのことを忘れるなんて、俺には想像できないし、出来ればしたくもない。これが若葉ちゃんの現実なんだな」
平嶋さんは真剣な顔で呟く。いつもは冗談ばかり飛ばして、酒癖が悪い彼のこんな表情は初めてだ。その表情を見ていると、私も重い気分になってしまう。ベンチに繋がれているランディは、そんなことお構いなしにぶんと鼻を鳴らす。そのどこかとぼけたような表情を見ていると、私は思わず吹き出してしまった。それを見て、平嶋さんも破顔した。
「また今日も、飲みに来るから」
「はい。待ってます」
夜になると、宣言通り平嶋さんが家に来た。いつも通り酒を飲み始めると、すぐに酔っぱらった。
「大体さ、こいつは批判と罵倒をはき違えてるんだよ。批判っていうのは論理的に行うものであって、こいつが言っていることはただ感情に任せて罵ってる罵倒だよ」
平嶋さんは、テレビのバラエティー番組に出演している辛口コメンテーターもどきのタレントを批判している。今までは、平嶋さんに対してあまり好感を持っていなかったが、昼間の顔を見て私は少しだけ好意的に見ることが出来るようになった。
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