戊辰戦争開戦のトリガー【新徴組】
新徴組本部跡、湯田川温泉 隼人旅館の庄司庸平です。
慶応3年(1867年)10月14日、第15代将軍徳川慶喜が政権を朝廷に返上(大政奉還)し、鎌倉時代から700年続いた武士による政治が終わりました。
しかし、政権を運営する能力も体制もない朝廷の委任により政治、外交をそのまま幕府が担うことになりますが、12月9日、大久保利通、西郷隆盛、岩倉具視が幕府抜きの新しい政治体制を確立するためクーデターを起こし、明治天皇より「王政復古の大号令」が発せられ、江戸幕府廃止、同時に摂政・関白等の廃止と三職の設置、諸事神武創業のはじめに基づき、至当の公議をつくすことが宣言されて新政府が樹立しました。
薩摩藩邸焼き討ち事件
王政復古の大号令後も旧幕府や慶喜勢力が健在であったため、討幕派は武力討幕のきっかけを作るために、薩摩藩邸を拠点とする相楽総三らに浪士隊を率いさせ、江戸市中所の撹乱を計画、実行するなど、旧幕府を激しく挑発します。
毎夜のように、鉄砲まで持った無頼の徒が徒党を組んで江戸の商家に押し入り、家人や近隣の住民が惨殺されたりしました。江戸の市民はこの浪士集団を「薩摩御用盗」と呼んで恐れ、夜の江戸市中からは人が消えたといいます。薩摩藩邸を拠点としていた浪士集団(後の赤報隊)は、総勢500名ほどとされ、その多くは金で雇われたならず者で、強盗、殺戮、放火などを好んでやるような輩でした。
江戸市中の取締りをしていた新徴組も、時の政治状況をわきまえて浪士を刺激しないようにしていました。そのため、活動は益々激化し、江戸だけでなく周辺地域まで拡大していきました。
慶応3年12月23日、江戸城西ノ丸が焼失。同日夜、江戸市中の取締りにあたっていた新徴組の屯所への発砲事件が発生し、使用人1人が殺されます。これも薩摩藩が関与したものとされ、ついに老中・稲葉正邦は庄内藩、岩槻藩、鯖江藩などから成る幕府軍を編成して、12月25日の早朝、江戸の薩摩藩邸とその支藩の佐土原藩邸を焼き討ちさせます。この事件には新徴組も出動して、その中心となって活動しました。
しかし、この事件が薩摩・長州両藩の武力討幕の口実となり、翌年正月の鳥羽・伏見の戦いの引金となりました。
時代は一気に「戊辰戦争」へと突入していきます。
新徴組、庄内へ
戊辰戦争が始まると、慶応4年(1868年)2月15日、新徴組は江戸市中の任を解かれて、庄内藩の江戸引き上げと共に2月26日から順次庄内へ赴きました。当時の新徴組の規模は組士136人、家族311人でした。
3月14日には鶴ヶ岡(山形県鶴岡市)に到着し、15日からは湯田川温泉に仮住まいを始めました。庄内藩では宿屋と民家37軒に分宿させ、組役所を【隼人旅館】に置いて組士を監督しました。
湯田川での生活は、明治3年(1870年)に大宝寺村に建設された組屋敷へ移住するまで2年半続きました。
庄内戊辰戦争
慶応4年4月24日の明け方、新政府軍が清川村(山形県庄内町清川)を急襲して戦端が開かれました。新徴組121人は庄内藩軍に編成され、即日清川口周辺への遊撃を命ぜられ、湯田川からの一・二番隊が昼九つ(正午頃)に到着し、庄内藩が勝利をおさめました。
閏4月27日、新政府軍が新庄藩肘折村(山形県最上郡大蔵村)に侵攻したため、同地へ転陣を命ぜられ勝利をおさめました。
5月5日に全軍が引き揚げ、新徴組は湯田川へ帰ります。8日、新徴組に英国式の銃隊編成が命ぜられ、29日に新徴組は庄内藩四番隊松平権十郎隊に付属されました。
7月6日、新徴組肝煎・分部宗右衛門が庄内藩御家中組に編入され村山郡の代官に抜擢されました。
この後も新徴組士は各地において転戦し続けましたが、各戦線では奥羽列藩同盟軍の敗北・離脱が続き、9月には仙台、米沢両藩9も降伏し、米沢藩は庄内藩への降伏を勧告する征庄先鋒役を命ぜられます。
8月下旬から越後国境で政府軍との激戦が続き、9月11日関川村が新政府軍に占領されます。こうしたなかで庄内藩も降伏を決定し、9月25日鶴ヶ岡城の開城、武器接収、藩主の城外謹慎など6条件で謝罪降伏しました。
庄内戊辰戦争では新徴組士5人が戦死・戦病死しました。今も湯田川には在往中に亡くなった組士、及びその家族の墓地があります。
西郷隆盛の温情ある差図によって、新政府軍は庄内藩に威圧的に接することなく礼節を尽くして対応したといいます。これが明治3年(1870年)に、庄内藩が前藩主・酒井忠篤とともに大勢の藩士を鹿児島へ留学させるなど、両藩の友好関係として大きく発展し、昭和44年(1969年)11月7日に鹿児島市と鶴岡市は兄弟都市盟約を結びました。
隼人旅館には新徴組士・喜瀬十松が小名部へ出陣した際に書き残した道行文(旅の途中の光景や旅情を述べる、七五調などの韻文体の文章)が残っているので紹介します。
隼人か宿を立出るハ今宵そ、秋の最中なる三五夜中の真月に空さへすめハ、鷺の湯も、一入ましく澄出る、貝ニ乗出し五挺の駕籠、仁義の軍なれハ迚、心も揃ふ礼智信、町田の川ノ打わたり、坂下水の流ニも、元よりこのむ鬼坂も、越て難なく管ノ代、ひと夜をあかしあつミ川、木の俣村を跡になし、早くと急く小国村、関守人に物申、やかてぞ小名部に宿りぬる、こしぢの方へ趣て、山又山を越近ト、見立てる山も、もみじして、錦織出し最中ニそ、降る陣場も陣小やも、御家の印も日本こく、鼻も高畑、中ノ峯、持場ゝを固メけり、早光陰も移りぬる、月を渉り日を渉り、秋の夜の長きもいとわすくらしぬるを、さる人のさそかし心もやくたひれはんへらん、おん身もや疲れぬらんと、厚心のまめゝ敷、陣中の御見舞として、いしくもかちんを送りぬる、其真心の忝なさ、我は更也、其外さまも思ひ付たり、御家の印ハ日ノ丸ニて旭也、今給もふもちハ其なり、丸く色白し是いわゆる月也、隼人か宿を出しを思い侍る
もとよりも仁義の軍なれハこそ
天もめくみて丸かぢんとは
【文意】
隼人の宿を立ち出たのは今宵の事、秋の真っ最中の三五夜中(旧暦8月15日夜。)の真月に空も澄みわたり、鷺の湯もひとしお増して澄出ていた。法螺貝の合図で乗り出した五挺の駕籠。仁義の軍であるから、心も揃って礼智信。町田川の打ち渉り、坂野下水の流れにも、元より好む鬼坂も、越えて難なく菅の代。一夜をあかして温海川、木の俣村を跡になし、早くと急ぐ小国村。関守人に物を申した。やがて小名部に宿った。越路の方へ赴いて、山また山を越近と見て立つ山も紅葉して、錦織り出しまっ最中。降る陣場も陣小屋も、御家の印も日本国、鼻も高畑、中の峰、持場持場を固めた。早光陰も移った。月日を渉り日を渉り、秋の夜長きも厭わず暮した。ある人がさぞかし心もくたびれただろう、御身も疲れただろうと、厚心のまめまめしさ。陣中の御見舞として、けなげにも餅を贈ってきた。その真心のかたじけなさに我はさらに感動した。そのほか様も思い付いた事をしてくれた。御家の印は日の丸で旭である。今いただいた餅はまさにそれである。丸くて色が白く、これはいわゆる月である。隼人の宿を出たことを思い出している。
もとよりも仁義の軍なればこそ
天も恵て丸かぢん(餅)とは