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【新徴組】の最期

新徴組本部跡、湯田川温泉 隼人旅館の庄司庸平です。

幕末の江戸において庄内藩の下、市中取締りの任に就いていた【新徴組】。

戊辰戦争が始まると、庄内藩の江戸引き上げと共に庄内の地に赴き、庄内藩と共に戊辰戦争を戦いました。

慶応4年、庄内藩は一度も敗戦を経験せずに新政府軍に降伏。その間、新徴組士は5人が戦死・戦病死しました。

庄内藩は明治2年に大泉藩と改称し、藩では大宝寺村に組屋敷を建設して、新徴組士は湯田川から移り住みました。

新徴組の為に庄内藩が大宝寺村に建てた住宅。
その後、松ヶ岡の開墾の組小屋として移築した。
その内の一棟が復元され保存されている。


松ヶ岡の開墾

明治4年7月の廃藩置県で各藩の常備兵は解体されました。しかし、大泉藩(大泉県→酒田県→鶴岡県を経て山形県に編入)では名目上は解体しましたが「常備組六小隊」と改めて、士族体制維持のため、兵事訓練、学問修養の諸会合を続けました。

しかし、家禄改正などで収入が激減し、役職などに就けない下級武士の生活は苦しく、常備組六小隊の訓練や会合への無断欠席・遅刻が多く、気構えも乱れて行きました。

また、新徴組士のほとんどは庄内の地に縁もゆかりもなく、その風土になじめない者がほとんどで、忠誠心などで本藩士との差が大きく、この地に暮らし続けることに迷っている者が多くいました。

明治4年9月、旧庄内藩中老、県権参事の菅実秀は東京で西郷隆盛と面会し、崩れかけた士族体制の打開策、特に藩士の開墾による集団帰農について相談します。それは、開墾により養蚕業を盛んにして士族の生活の途を拓くとともに、藩伝統の報恩・徳義精神の再興を図るものでした。
その結果、西郷隆盛の賛同と助言を得て、士族らによる集団開墾事業が計画されました。

しかし、新徴組士の中には、この開墾事業に疑念と不満を抱き、参加を拒否する者が出ました。県では開墾事業に先立って、組士たちを神社に集めて開墾事業への参加を祈誓させましたが、彼らを納得させることは出来ませんでした。

松ヶ岡の開墾では、新徴組士の脱走・離脱行動が相次ぎ、内訌・粛清が展開されました。脱走者に対して県は切腹・討伐等の厳しい処置を以って臨みました。

脱走に成功した者の中には、上京して司法省に開墾や県政の非を訴え出る者もいました。

松ヶ岡の開墾事業の際に用いられたと考えられる新徴隊旗。


開墾開始から10年後の調査では新徴組出身者は11名しか残っておらず、新徴組は事実上、庄内で雲散霧消、その姿を消しました。現在、新徴組士等が開墾した松ヶ岡に残っている末裔は3戸のみです。


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