あなたの事業はなにか?
「あなたの事業はなにか?」
ドラッカーのこの問いには、いつもハッとさせられる。
問うてくれたのは、先日ドラッカー学会の代表理事に就任された井坂康志先生。
もちろん、「私の事業は学習塾です」では駄目である。そして当時の私には自分の事業が分からなかった。
なんとも間抜けだが、私は先生にこう答えた。
「う〜ん、分かりません」
まるで、不意に先生に当てられた出来の悪い生徒の発表である。
「自分の強みは何か」
私は高校の時、英語がまったく分からなくなってしまった。救ってくれたのは、予備校で出会ったカリスマ講師。彼らは、私でさえ完璧に理解できるよう教えてくれた。
以来ずっと、カリスマと言われる人たちの教え方を研究している。だから塾が評価される点も、当然教え方だと思っていたわけだ。
しかし最近気づいたのだけれど、そもそも私の近所の方々は、中学レベルの英語力があるかどうかの心配をしているようである。
「いったい、なんでうちの塾に来てくれるんだろう」
そんな訳で、自分の塾の事業が何なのか、皆目答えられなかったのである。
エフェクチュエーションという起業理論がある。
「因果論」とはまったく異なる「縁起論」の起業理論だ。縁起論とは人と人の縁を起こすことだと捉えられたい。
私はエフェクチュエーションには、世界を完全に変えてしまう力があると睨み日々研究に勤しんでいる。
因果論では、何らかの狙いがあり、そのための計画を立てる。それが常だった。
しかしエフェクチュエーションでは、起業したとしても結果がどう出るかは分からないとする。むしろ狙いを定めるなと言うのだ。
例えば、私はテクニックに自信があったわけだが、生徒らに評価されたのは圧倒的に面倒見の良さだった。
ただ、たまに生徒らに、
「私は本当に凄い先生なのだ」
「日本で5、6番目には凄いかな」
「私は天才である」
と言う。
だが狩野英孝の「僕イケメン」と同じく、ネタと思われスルーされているようだ。
心底有り難いことだけれど、うちの生徒らは本当に喜んで塾に来てくれる。
そして分かったことがある。
「あ〜、俺、面倒見の良さ以外、一切評価されてないわ」
すなわち私の事業とは、謎のテクニックではなく、面倒見の良さなのであった。
ちなみに起業では、このように目論見以外のところで結果が出ることが多々ある。
意外な部分で評価される。だから、ドラッカーは「あなたの事業はなにか?」と常々尋ねているのだ。
経済的にも目論みはつかないが、実はアイデンティティ的にも目論みはつかない。
私自身、ここまで子供が好きだとは思ってもみなかったし、自分の面倒見の良さには気付いてすらいなかった。
人は意味のあることをやろうとするが、やってみて初めて明らかになるのがアイデンティティである。
師匠の橘川幸夫さんが、こんなことを言っていた。
「自分を探したって、見つからない」
「この世界にはいないよ」
「自分ってさ、過去にしかいないんだから」
エフェクチュエーションの生みの親、サラス・サラスバシーは、起業家になるために最も重要なことは、
「私は誰だ、という問い」
だとする。
自分は計画通りには見つからず、いつも意外な過去に隠れている。
私の崇拝するアーティストの遥奈さんが、ラジオでこう話してくれた。
「儲けようと思って何かを始めて、意外にも、こんなふうに自分は人の役に立つのか、と分かることがあります」
「意外な儲け方、を超えたアイデンティティが」
起業をし、全人的な解答を得る。連続起業家はこのために起業をすると言っても過言ではない。彼らにとって挑戦とは、自らを深く掘るための手段なのだ。
ドラッカーの「予期せぬ成功」はしばし、予期せぬ成功がもたらす経済的なイノベーションだと捉えられる。
だが、そうではない。予期せぬ成功とは、全人的な解答が、意外なところからもたらされることを意味している。
ちなみにエフェクチュエーションは、それゆえ計画やマーケティングを敵視するのだ。
「あなたの事業はなにか」
「あなたの強みはなにか」
自分は過去にしか見いだせない。計画的に自己を見出すことなど不可能だ。
現在は、自己を磨き上げ過去を作り出すためだけに存在する。
だから、
そう、
挑戦をし、意外性の力で本来の自己を見つけ出そうではないか。
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