滅びゆく人間からバカにされる人生の片鱗に、次世代を生きる夢は潜む
「ねぇ松井さん、あの家、どう思います?」
むかし、磐田にいたナチュラリストのエディさんにそんな風に問いかけてもらった。エディさんが指さしたのは、築30年くらいの、なんの変哲もない民家。
「どうって? どうってこともない昔の家ですよ」
「実は、、、私たちアメリカ人はですね、あんな形の家にとっても、あの、なにか、なんて言ったらいいか、日本語が出てこない。そのなにかを感じるんです」
「郷愁ですか?」
「そうです。郷愁を感じます」
「あのどこにでもある、こう言ってはなんですけど、どうでもいい家に郷愁を?」
「そう」
「でも、日本人はみんな知らない」
「私たちがどういう気持ちで、日本の家を見てるのか」
「私たち、みんな、あんな風な家に住みたい」
今日、友人Tのところで、こんな話を聞かせてもらった。
「日本人なら誰でも知ってるある会社の息子さんね、軽井沢からヘリコプターで学校に通わせてもらってるんだって」
「その息子さんの世話人と仲がいいんだけどさ、その子の夢って、いつも留守にしてるお父さんに遊んでもらったり、学校の友達と一緒に遊びながら家に帰ることなんだってさ」
お金のある人は新しい家に住んで、エディさんが好きな家には住まないし、僕なんかはヘリで通学できたら格好いいだろうなって夢見そうなくらいだ。
だけどアメリカの人にとっては、築40年の僕の家に住むのが夢だし、大金持ちの息子さんはお父さんに遊んでもらったり、学校の友達と一緒に帰るのが夢なのだ。
完全に『ローマの休日』の金持ちの幻想のような気がするけれど、紛れもない事実なのだ。
僕が小学校の時していた生活って、金持ちの夢だったのか。
先の友人Tはこう話してくれた。
「自分の持ってる価値ってのが、分からなくなってる。良さそうに見えるものを真似するばっかりでさ」
「ヨーロッパとかニューヨークとかの人は頭がいいよ。昔の風景を計画的に残してるんだから」
「スパイダーマンとか007とかに出てくる風景、松井も知ってるだろ? 彼らは自分独自の価値ってのをよく知ってる。だから昔のものを残すんだ」
そこからは仕事論の話になった。趣味人の彼はいろいろな趣味を仕事につなげていて、知り合った仲間からも、たくさん仕事を得ている。
「納得できる仕事なら、それでいいんだよ。逆にそうじゃなきゃ地獄だ」
思えば、学校で僕は自分独自の価値というものについて習ったことがなかった。習ったのは偏差値とか年収とかの、普遍的な価値についてだけだ。
「男子一生の仕事」という言葉が使われなくなって久しい。それでも大抵誰もが、そんな安定した職業を欲するのではないだろうか。
「パソコンなんて、そのうち無くなるぜ」
ある失職中のエリートの友人に、パソコン教室での起業を進めたときにそう言われた。
そうかもしれない。しかし、危ないのはパソコンだけじゃない。塾だってAIにとって変わられそうだし、税理士だって司法書士だって医者だって危険だ。20年後にメインになっている仕事は、今は存在すらしていない仕事だとも言われる。
必要なのは生き残るための教育なのだろうけど、あいも変わらず学校では僕が子供の頃と同じものを教え込んでいる。正直に言えば、うちの塾でも同じことだ。
アメリカの大卒就職率は50%程度にまで落ち込んでしまった。半分はマクドナルドでのバイトのような、大学に行く必要のない仕事をしている。
今ある教育を受ける意味が、急激になくなってきているのだ。
「高等教育は、職を得るために存在してきたが、職を作り出す責任を放棄してきた」
とは『世界レベルの学習者』(“World class learner“)の著者の言である。しかしそんな教育では、職を得ることすらできなくなっている。
「コロナでさ、うちの店がなくなるとかじゃなくって、飲食業そのものがなくなってしまうような気がするよ」
そんな話を居酒屋の主人から聞かせてもらった。どんな職業でもなくなる危険性がある。医者も塾講師も税理士も。すべての人が失職する可能性の上で、職探しをせねばならない時代なのだ。そんなとき、僕らはどんな職業を探せばいいのだろうか。選ぶべきは、ステータスの高いものではない。
ミンデルという心理学者が、ドリーミングという一風変わった概念を提出している。
日常の風景が輝く瞬間がある。
初めての夏日になった昨日、防波堤のコンクリートとその縁に生える草木が今年一番くっきりと見えた。小国神社の空が、去年以来初めてみる夏の空だった。ふとしたところで、なにかジブリ映画のスクリーンを見ているかのように、色彩を増して見えるときがある。
もちろんそれは素晴らしいのだけれど、夢のようにすぐに覚めてしまう。もともとはアボリジニーの知見だと言うが、ミンデルは生まれてはすぐに消えてしまう、そんな夢のような光景に「ドリーミング」という名をつけた。
生活を支える現実的な労働ではなく、儚い無価値ともされてしまう物語を思わせるそんな光景にこそ、人の生きる意味がある。ミンデルはそう語るのだ。自分独自の価値とか自分の生きる意味というものは、人生の片鱗に隠されているのかもしれない。
友人と下校する時間。
父と遊んだ公園。
夏の日のあの娘の笑顔。
歴史的にもっとも進んでいるとされる学習理論、「正当的周辺参加」の理論でも、学びの本質は友と語り合う時にあるとされる。野球でもサッカーでも、監督の話を聞いていれば上手くなるわけではない。友人と語り合わねば上手くはならないのだ。
「他人の作ったカリキュラムを消化するだけで、人生を渡っていけるはずがない」
先の理論の提出者J.レイブはそう語る。
友を作れるかどうかなのだ。
大人の職探しも同じだ。
学習塾を通じて、友を作ること。
アロマを通じて、
整体を、
精肉店を通じて、
・・・を通じて、、、
その職を窓口にして、友を作れるかどうか。これからの時代に必要な自分にとっての仕事の価値とは、そんなところに見出せると思うのだ。仲間さえいれば、すべてをなくしてもまた始められる。すべての職がなくなっても、生き残っていけるのだ。
偏差値とかステータスとか年収を重視する既存の教育では危険だ。もうすでにその種の教育は機能不全を起こしているし、ミンデルはそちらから得られる仕事を躊躇なく「地獄」だと表現する。
その仕事は他者へと開かれる窓となっているか。塾業界のようにすぐなくなるものでもかまいはしない。コミュニティを得て、また新しい何かを始めればいい。
一生安泰な仕事を求めてはだめだ。今、そんなものはどこにもない。代わりに一生元気でいられる触媒を探すのだ。
夢物語のような、滅びゆく人間からバカにされる人生の片鱗に、次世代を開く夢は潜んでいる。
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起業家研究所・学習塾omiiko 代表 松井勇人(まつい はやと)
下のリンクの書籍出させていただきました。
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