モテる学問 講義その1 『競争者でなく創造者を探せ』
生徒A
生徒B
当塾、学習塾omiikoは「モテる学問」を標榜している。そのため「なぜ現代教育では学問をしてもモテないのか」という命題に答えることを義務付けられているのだ。
井坂康志先生の『Drucker For Survival』の枠組みを借りながら、この大命題について極めて優秀な生徒2人に話しを聞いてみた。
「なぁ、自分の目標としているものってなに?」
生徒Aは「オレのゲームの目標はね!!」と、塾にいながらも今一番興味があるゲームについて熱く語ってくれた。生徒Bにいたっては、ほとんど自分の目標について語ってくれなかった。まさに炎と氷、『バスタード』のダークシュナイダーとルーシェのようだ。
なぜ現代教育ではモテないのか?
生徒A 「できて当たり前、できなきゃ病気という風潮がある」
生徒B 「標準化が進みすぎているから」
まったく気が付かなかったが、言われてみればその通りである。サッカーや野球、ラグビーなどでは、ルールを覚えてそこからプレイをする。図示すると上の図の左の矢印のような感じだろう。
だが現代教育というものは、ルール(標準)を覚えて終わり。右の矢印のような感じだ。ルールを覚えてなにかをするというわけでもない。むしろ覚えてからそれ以上のことはしてはならないという雰囲気すらある。
サッカーで言えばオフサイドやFK、PKなどのルールをひたすら覚え、「はいそれでおしまい、ゲーム禁止」と言われるようなものだ。
これではなにをしているのか分からない。
標準化では自らが進むべき道を得られない。言われた通りのことはできるが、自分の視座が見つからない。
『逆転人生』の共著者、田中淳吾さんは学生時代にアメリカを1ヶ月かけて旅している。大部屋で外国の方と触れ合うと、そこには違う世界があった。
「別の世界を見たことで、ある意味、視座を得たのだと思う」
そして、ソフトバンクの孫正義氏の言葉を引用してくれた。
「人間の99%は、どの山に登るかを決められていない」
自身の視座というものは、標準化された一枚の写真のような世界の中ではなく、モザイクやクレイジーキルトのような雑多な世界の中で見つかるもののようだ。自分以外の世界の存在が、決められた答えではなく、ものを見るためのルールを教えてくれる。
答えではなく視座を得る。視座は同質化された人間の中では見つけにくい。そこには答えしかないのだ。人は答えを求めるより寧ろ、彷徨う必要がある。
夜間中学を描いた映画『ただいま』の出演者の方々は、かつてこう語ってくれた。
「夜間中学では文字を読めないおばあちゃんとか、聞いたことのない国から来た人とか、分数ができない中学生がいたりします」
「おばあちゃんの夢は日本語の本を読むことだし、外国の方の夢は日本人の友だちを自力で作ること、中学生の夢は分数ができることです」
「そういう人と一緒にいると、自分の夢を見失わないんです」
世界ではいろいろな山に登っている人がいるのだけれど、僕たちはいつのまにか敷かれたレール以外が見えなくなってしまった。レールの上にある一つだけの世界ではなく、雑多な世界に触れると「自分の山はなにか」「どの山に登ろうか」を考え出す。
我らは知らぬ間に競争者であることを強いられ、創造者になれることを忘れさせられていた。ルールを覚えてもゲームをさせてもらえないサッカー少年。馬鹿げた話だ。疲弊するだけで楽しめないではないか。
競争者でなく創造者を探せ。
1%しかいない、どの山に登るかを決められた人間を。
自らの進むべき道は、彼らを見つけた時に開けるのだ。
そこにモテる学問もある。
お読みいただきまして誠にありがとうございましたm(_ _)m
めっちゃ嬉しいです❣️
新刊『逆転人生』を4名の素晴らしい方々と一緒に出させていただきました。
内容を5名分、下のリンクより少しづつ公開させていただきます。
是非お読みくださいませ(^○^)
下の書籍が定番です。
歴史上、だれも端的に述べられなかったフッサールの現象学が持つ本当の意味や、とても高名な方々が半分も理解していないヘーゲルの精神現象学などを、14歳にも分かるよう解説させていただきました。
是非ご覧くださいませm(_ _)m
書籍の紹介動画です。