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Pathfinder


ある日、おばあさんがフロアで突然、

「お世話になりました、帰ります」

と言い出した。普段は言わないおばあさんのその言葉に、仲良しのおばあさんもスタッフもみんなが驚いた。
仲良しのおばあさんは、どうして?なんで帰るの?もうご飯よ!と説得するが、おばあさんは聞く耳を持たず、訴えを続けた。その焦燥感は次第に高まっていっているようにみえた。
ここでよくある対応は、実際に一緒に歩いてみたり、仲良しのおばあさんの言うようにご飯を提供するなどして時間を稼いだり、というものがある。それらが悪いことではもちろんない。だが、そこに至るまでに、もっと大切なことがある。

「帰る前に、おトイレ行っときましょ!」

おばあさんをトイレにお連れした。するとどうだろう。大量の排便がみられた。その後は落ち着きをとりもどし、仲良しのおばあさんと一緒にいつも通りご飯を食べたのだった。おばあさんの何としてでも帰らなければという焦燥感は、排泄欲求から生まれていたのだった。

さらに別の日、おばあさんはフロアで突然机を叩き出した。強弱つけながらバンバンと。フロアには聞き慣れない音が鳴り響いていた。おばあさんのいつもと違うその行動に戸惑いを隠せない周囲の人たち。
仲良しのおばあさんは叩くのやめて!迷惑よ!と注意するが、ますます叩くばかりだ。
ここでよくある対応は、気分転換に別の場所へお連れしたり、興味関心のあるものを提供したりするなどして、場面を変えることだ。ここでも当然、それらが決して悪いわけではない。だが、必ず確認しなければならないことがある。

「元気やなぁ!ちょっとおトイレにいきません?」

おばあさんをトイレにお連れした。するとどうだろう。大量の排便がみられた。その後は落ち着きをとりもどし、仲良しのおばあさんに元気に排便があったと報告。その後叩くこともなくなった。排泄欲求を言葉で上手く伝えることができなかっただけだった。

人の行動には必ず理由がある。というふうに言われるが、大事なのは理由だけがあるのではないということ。その行動の影にはその人にしかわからない、その人も気づいていない原因もあるのだ。そしてその多くは生活の中に潜んでいる。

上手く言葉にできない人たちが、行動を通して僕らに訴えかけてくる。まだわからんのかあんたらはと。
僕らはその挑みに対して応えなければならない。その行動の主訴に気づけるような探求者として、目の前の方々に接するのだ。

その思いに辿りつけないかもしれない。でも、それでもいい。辿りつこうとした。その歩み寄ろうとした積み重ねが、おじいさんおばあさんとの間に、絶対的安心の対象となる関係性が育まれるかもしれないのだ。そしてその時、おばあさんの声なき声が自然と聞こえてくるのかもしれない。

「すんません、トイレ連れてって」

まかしてくださいな😊

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