noteを20記事書いて
気がつけばnoteに書いた記事が20記事になっていた。まだ20記事という感想もあるが、よくぞ20記事もという印象もまたある。
9月の中頃から始めて、2、3日に一度のペースで更新している。全て1500字を越える字数で書いてきたのだから、我ながらよくやっていると思う。今後は、頻度をもう少し増やしていきたい、読まれる記事を書いていきたいという野望をいだいている。
そんな状態の今感じ始めている変化をまとめてみたい。
記事の内容に困りだした
そろそろネタが尽きてきたように感じてきている。ネタがつきた、というよりは、何やらこれまで書いたことと主張が似ていたり、ほとんど同じであるような気がすることが増えてきた。
実際に同じであっても書けばいいのだと思うが、なんとなく「同じ内容だし、重複しているものを公開していいのか?」という葛藤が自分の中にある。
全く問題ないし、自分の記事を読んでくれる方はまだまだ少数なのだから、同じ主張でも、形を変えて発表すれば新鮮なものだろう。おそらくこの考えは間違っていない。
上記のようにわかってはいるが、どうも気が乗らない。というようなことは、時々起こる。
スポーツで頭では理解しているが、体がついてこない時と同じような感覚かもしれない。そうすべきだと思っていても動けない感じだ。
こういう時は基本的になんとかもがいてでも動くべきだ。すべきと考えてしなかった場合の損失は大きい。これは私の経験上の話だが、他の人の場合においても、それほど間違っていないのではないだろうか。
記事の質をどこまで考えるべきかに迷う
記事を定期的に書く習慣のようなものは、身についてきたが、そのクオリティは一切考慮していない。まず書くことを意識してきたためだ。
今後は記事の質を上げていきたいと思っているが、どうすればいいのか迷っている状態だ。
記事の質を上げるために1番大切なのは、コンテンツ力だと考えるが、ここに意識を持ちすぎると自分の持つエピソードは弱いのでは?と書くのが億劫になってしまう。
一方で、コンテンツを無視して自分本意の内容ばかりになってしまうと誰に読んでもらいたいのかわからない日記テイストの記事が生まれてしまう。
上記の問題を解決するため、以前から読んでもらい人を最初に思い浮かべるようにしていたが、最近それをせずに記事を書いてしまっている。
これからは、文章の流れとともに、読んでもらいたいターゲットをノートに書くことにする。
常に記事として表現できないか考えるようになった
日常の出来事を以前より客観的かつ、主観的に捉えられるようになっている気がする。
他者目線もありながら、自分はどう感じたのかを意識して考えるようになっている。
自分はどう感じたか、なぜそう感じたか、というものを以前に比べれば言葉にできるようになっている。まだnoteの記事を書き始めて1ヶ月とそこらだから、まだまだ伸びしろがあるなかでこれだけ変化を感じられているのは嬉しい。
他の人の記事を分析的な目線で見始めた
自分の記事に興味を持ってもらいたいがために、他の面白い記事はどこが面白いのか、どこがよくないだろうかと考えるようになった。
まだその成果を自分の記事に反映できているとは思えないが、大きな前進だ。実践+研究といういい学び方になっている。今後も飽きずに習慣的に続けていきたい。
おわりに
noteを20記事書いてきた中で、いい変化も、困難も出てきている。
記事を書く理由である「感情の言語化」という側面から見てみると、書き続けていて良かったと思える成果が見られている。また記事の質や、内容の苦悩と、書いてきたからこそ直面する悩みで、ある意味続けてきたからこそ見える景色で悪いものではない。
これからこれらの悩みに向き合いながら、前向きに誰かの役に立ったり、助けになるような記事も書けるよう続けていく。
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