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なで肩の人

お客様からよくお問い合わせのある商品の一つに、リュックの『チェストストラップ』というものがある。ショルダーベルト(肩にかける部分)が肩からずり落ちないように、胸の前で結わえて留める道具だ。これは主に登山用のリュックなどに装備されているものだが、普通のリュックにもちょくちょく付いていることがある。なで肩の方には便利な物らしい。
一定の需要はあるようだが、生憎ウチではこの部品単体では取り扱っていない。申し訳ございません、とお詫びすることになる。

こういう時に思い出す、昔の上司がいる。Sさんという。
Sさんは物凄いなで肩だった。通勤の鞄がいつも肩からずり落ちて困る、とこぼしていた。おまけに男性にしては大変小柄で細身だったから、女性ものの服装でも着られそうだった。
面立ちも柔和で、振る舞いも物静かな人だった。
Sさんは為替部門担当の主任だった。当時は随分年上だと思っていたのだが、実際は五、六年くらいしか歳は変わらなかったと後に知ることになった。
同じように小柄で可愛い奥様と、お父さん大好きな三人のお子さんがいた。

私の居た支店のお客様は当時、独特の困った『習慣』があった。当座預金に残高がないのに、平気で小切手を切ってしまうのである。手許に入金可能なものがあるにもかかわらず入金になかなか来てくれず、我々の方から『残高不足です』と連絡しなければならない、という難儀な状態だった。これが数社ではなく、半分以上という不思議且つ異常な状態だったから、私達外回りも『この小切手は本当に不渡りにならないんだろうか』と不安に思いながら預かることがしょっちゅうだった。
残高不足の連絡をするのは本来は為替部門の課長の役割(普通は連絡なんてしなくて良い)なのだが、この課長がぶっきらぼう過ぎてお客様とトラブルになることが頻発したため、店長命でSさんにお鉢が回ってきていた。
「あのー、○○銀行のSです。いつも大変お世話になっております。実は残高がちょーっと足りませんで・・・当座預金にご入金をお願いしたく・・・申し訳ございません、はい、はい」
Sさんのこの声を毎日何度聞いたことだろう。本来は入金しないで小切手を切ってしまうお客様の方がかなり非常識なのだが、そんな事はおくびにも出さず、Sさんはいつも丁寧だった。受話器を耳に当ててペコペコお辞儀する彼を、大変そうだなあと思って見ていた。

課長が電話していた時はムッとした顔で入金に来られるお客様が多かったのだが、Sさんに代わると
「ごめんねえ。入金遅くなって」
と課員やSさんに詫びながらやってくる人が徐々に多くなった。そしてちゃんと先に入金してくれる(本来こちらが当たり前なのだが)お客様もチラホラ出てきた。
入金が締めの時間に間に合わない時は私達外回りが呼び出され、お客様から集金して店に駆け戻ることになるのだが、そういう時Sさんは
「すまん、業務の邪魔して悪いなあ。長い間ここの『文化』になっとるから、世間の『当たり前』を知って頂くのはなかなか大変なんや。啓発していくから、また協力頼むわ。いつもありがとう」
と急いで入金を持ち帰った私達から拝むようにしてお金を受け取りながら、早足で窓口に向かうのだった。

Sさんは暫くして北陸に転勤になった。丁度私が結婚を機に退職する前の月だった。しかも転勤先は結婚後に私が暮らす家のすぐ近所。嬉しい偶然に、
「絶対遊びに行きますからね!」
と言うと、
「おう、待っとるで」
と笑って答えてくれた。
当時小学六年生になろうとする息子さんがいたため、『卒業までは関西の今の小学校に居たいだろう』とSさんは単身赴任するつもりにしていたらしい。ところが息子さんが
「友達と離れるより、お父さんと離れる方がオレ嫌や」
と言ったとかで、家族揃って北陸に引っ越して来られていた。
良いお父さんなんだなあ、と思った。

私の長い北陸暮らしの間にSさんはまた転勤になり、関西に戻られた。最終出勤される日に子供を連れて挨拶に行ったら、
「世話になったなあ。在間も旦那さん、また転勤あるんやろ?子連れの引っ越しは大変やぞ!まあまた近く来たら来いや」
と忙しい中わざわざ出てきてくれた。
私はそれから随分経って関西に戻った。近所に支店はなかったから、Sさんの事はたまに同期から聞く程度だった。

それからどのくらい経った頃だったか、まだ社に残っていた同期の一人から
「早すぎる」
という短い文面と共に、訃報を知らせる社内向けのプリントの写真が添付されたLINEが届いた。
Sさんだった。
享年五十四歳。目を疑った。いくらなんでも早すぎないか、と思った。
病気の進行が早く、気付いた時には即入院になっていた、と後から聞いた。

惜しい人ほど早く亡くなってしまうような気がする。
あの息子さんも今は立派なお父さんだろう。
亡くなられてもう何年になるだろう。あの忍耐強い、優しい穏やかな笑顔を今でも時折思い出す。