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夢を叶えるには

今からもう何年も前の話である。
その頃私は、師匠のK先生のご実家でクラリネットのレッスンを受けていた。先生は私のようなアマチュア愛好家だけでなく、音大受験生なども大勢教えておられたから、そういう生徒さんとは顔を合わせることもあった。が、大抵は慌ただしくレッスン室に入っていく彼女達とお互いに軽く頭を下げる程度で、言葉を交わすことなどなかった。
同じ年代の子供を持つ親として、音大受験なんて親御さんも色々大変だろうな、と思ったりしていた。

ご実家は細長い造りで、中に待つスペースはなかった。なので早目に着いた時は前の人のレッスンが済むまで、横にある小さなコインパーキングの片隅で待つことにしていた。
早めに到着したある日、そこに一台の車が停まっていた。私はその車のナンバープレートに目を引かれた。滅多に見かけない、山陰地方の県名だったからである。観光だろうか、それにしてもこんな路地裏の小さな駐車場にどうして、と不思議に思って車を見ると、運転席に四十がらみの一人の男性が乗っていた。男性は私の視線に気づいたのか、ひょいと頭を下げた。私も慌てて頭を下げた。変な人ではなさそうだが、一体何をしているのだろう、と思っていた。

暫くすると先生の家の玄関が開き、先生が顔を出してキョロキョロした。私を見つけると、
「丁度良かった。入って下さい」
と手招きされる。中に入ると、レッスン室のドアが開いていた。先生は中に向かって、
「お客さん連れてきたから、聴いてもらうつもりでもう一回やりなさい!」
と言い、私をレッスン室に誘った。恐る恐る入ると、
「よろしくお願いします!」
とにこやかなお嬢さんが元気に頭を下げてくれた。音大受験生だ。
「人の前で吹く練習をさせたいので、聴いてやって下さい」
先生は私にそう言うと、彼女を前に立たせて私の横の椅子に足を組んで座り、
「はい!いつでもどうぞ!」
と真剣な顔で促した。

曲はウエーバーのクラリネット協奏曲第二番の三楽章。最後まで気の抜けない、しんどい曲である。
彼女はしっかり吹けていた。凄いなあ、と私が感心して拍手すると、彼女は嬉しそうにニコニコ笑ってお辞儀した。
が、先生は笑っていなかった。
「お前、これで○○大行けると思ってる?」
○○大は多くの名プレーヤーを輩出している、関西の名門大学である。彼女は笑うのをやめて、下を向いてしまった。先生は更に畳みかける。
「指は回って当たり前や。それよりお前はこの演奏で何が言いたかったの?僕にはちっとも伝わってこない。そんなんで○○大行こうなんて、無理やからな。お客さんにこうやって聴いてもらって、どんな感動を与えたかったの?」
私を共犯にしないで下さい、凄く上手に吹けてたじゃないですか・・・という言葉を飲み込んで、私は先生を横目で見た。機嫌の悪い時の表情になっている。
彼女は更に俯いてしまった。

その時、先生が突然声を張り上げて彼女に言った。
「はい、○○さん!あなたはどうして大学に行きたいと思ったんですか?」
まるで背中をどやしつけるような言い方だった。彼女は少し顔を上げて、小さな声でおずおずと言った。
「母校の吹奏楽部の顧問になる為です」
すると先生は 頷いて、
「はい、そうですね!ではその夢を叶えるために今、あなたができることはなんですか?」
と言った。すると彼女はぐっと顔を上げ、
「もっと練習することです!」
と大きな声で言った。
「そう。でもやみくもに練習するんじゃない。夢を実現するには今何をするべきなのか、いつもしっかり考えながら練習しなさい。良いですね!」
先生は彼女を見据えてそう言った。
「はい!」
彼女はもう俯いていなかった。
私は彼女のタフさに驚くと同時に、若いって良いなあ!と嬉しくなってしまった。

「帰りも電車?」
お礼を言って帰ろうとする彼女に先生が声をかけると、
「いえ、父が迎えに来てくれています。隣の駐車場で待ってると思います」
と彼女は返事した。
あっと思った。あの男性に違いない。片道約四百キロの道のりを、はるばる娘の為に運転してきたという事か。私は言葉を失った。
だが、先生は
「あ、そう。じゃあ気を付けて」
と何でもないように言って彼女を送り出した。

結局彼女は○○大ではなく、先生が教鞭をとる大学に進学した。後に先生が見せて下さった教え子達の写真の中に、彼女の笑顔があった。
「とても良いお嬢さんでしたね」
私が写真を見ながら言うと、
「ええ、芸術家にはなれませんけど」
と先生は厳しい一言を付け加えるのを忘れなかった。
それからまた数年経った頃、ふと思い出して、
「あの山陰地方から来られてたお嬢さんはどうしておられるんですか?」
と聞いてみたら、
「母校で音楽の先生になって、吹奏楽部の顧問になりましたよ」
と仰ったので
「凄い!夢を実現したんですね!」
と言ったら、先生は
「ええ、そうですね」
と嬉しそうに目を細めた。先生が初めて送り出した卒業生のうちの一人が、彼女だったそうだ。

夢を実現した彼女と、それを支えたご両親と、そこに導いた先生が歩かれた道を思うと、私はなんだか眩しいような気がした。
彼女はきっと今も元気に、音楽と共に歩んでいることだろう。