成長の糧?
クラリネットの師匠のK先生はヨーロッパにいた若かりし頃、本番に楽器を忘れて行ったことがあるという。どんなに上手なプレイヤーでも、楽器がなくては吹くことは出来ない。先生は機転の利く人ではあるがさすがにどうしようもない、と頭を抱えていたら、
「あ、歌劇場に備え付けの楽器があるから、使うと良いよ」
と楽団員が教えてくれた。良かった、助かったと胸をなでおろしたのも束の間、
「多分百年くらい誰も使ってないけど、音は鳴るだろう」
と言われてまた慌てたそうである。
しかしそこはプロ。確かに大変古い楽器だったがちゃんと音は鳴り、本番は無事終了したそうだ。
ここまでではなくても、本番の舞台に何度も乗っていると、私のような素人でもヒヤッとする経験を何度かするものである。
バスクラリネットを吹いていた頃、本番中に急に音が全く鳴らなくなって慌てたことがある。色々調べてみたが原因がわからない。困り切ってふと足元を見ると、その時穿いていたデニムのロングスカートをキーがしっかり挟んでいた。これではどんなに頑張って息を入れても鳴るはずがない。
この時以来、バスクラリネットを吹くときはパンツスタイルに決めている。
一番焦ったのはリガチャーが壊れた時である。
リガチャーと言うのはリード(振動媒体)をマウスピース(咥える部分)に留めておく為の部品である。輪状になっており、マウスピースに上からはめるタイプが一般的だ。素材はリードの振動を阻害しないものなら何でもよく、革や金属、木などもある。素材によって音の響きが変わるので、好みに合わせて皆色々なタイプのものを着けている。
大抵はネジを締めてリードを固定するのだが、このネジが突然壊れることがある。くるくる回るばかりで、ぎゅっと締められなくなるのだ。ネジの溝が劣化してバカになるらしい。
緩んだリガチャーは着ける意味がなく、使い物にならない。
徐々に使えなくなるのではなく、ある日急に使えなくなるので始末が悪い。
こうなると本当に焦る。
楽器ケースには常に予備を一つ入れるようにしているが、本番中だから取りに戻ることは出来ない。何かないかと探すと、舞台に持って上がっていた小物入れの巾着が目に留まった。入り口を紐で縛るタイプのものである。
焦るな、と自分に言い聞かせながら巾着の紐を抜いて解き、リードを親指で固定しつつ紐をマウスピースに巻き付けた。これで一応固定出来、本番はなんとか乗り切れた。
このことを話したら、K先生に
「いつもこれを携帯しておくといいですよ」
と言って一本の紐を勧められた。着物の帯締めなどに使う「組み紐」である。
組み紐は絹で出来ている。絹はいったんぎゅっと結ぶとなかなか解けない。ネジにも引けを取らない固定力なのだそうだ。
滋賀県の大津市に石山という地域があり、そこで職人さんが一人手作業でコツコツ編んでおられるもので、量産品ではない。世界的に有名なクラリネット奏者、カール・ライスターがこの組み紐を愛用しているとかで、知る人ぞ知る銘品なのだということだった。
以来、私は本番に必ずこの組み紐を適当な長さに切って、舞台まで持っていくことにしている。ポケットにも入るし、これさえあれば絶対に何とかなるので心強い。
紐をマウスピースに括りつけるのはリガチャーほど楽ではなくちょっと手間がかかるが、慣れれば簡単だ。
幸いあれ以来この組み紐の出番はない。普段は面倒くさくてつい手軽なリガチャーを使ってしまうが、たまには組み紐を使ってもみても良いのかも知れない。
本番中のアクシデントはなるべく避けたいが、後で色々気を付けるようになる。「懲りる」からだ。バスクラを吹く時はスカートは穿かない。ポケットにいつもリガチャーの代わりになるものを忍ばせておく。
まさかに備えるようになるのだから、失敗するのもこのレベルなら悪くない。因みに先生は楽器忘れ事件以来、出がけに指差し確認を怠らないようになったそうである。
ステージマネージャーをしていた友人によると、プロでも本番の忘れ物は色々あるそうで、蝶ネクタイや靴などを慌てて準備することもあるらしい。先生は
「靴を忘れたら、履いている靴を黒いマジックで塗ったりしますよ」
なんて言ってたけど、冗談だと思いたい。
失敗は嬉しくないが、二度と繰り返すまい、と気を引き締めることは人間が進歩するきっかけになるのだと思う。失敗=ダメな体験ではない。