三千万円の饅頭
若い頃、銀行の営業職をしていた時の話である。
お客様のところに伺う時は普段は車を使用していたが、近いところはかえって効率が悪い為、自転車を利用していた。小回りが利くから、こっちの方が便利なのである。
その日も自転車に乗っていた。店の近くの大きな交差点で信号待ちをしていると、私の目の前に紙切れが数枚、風に吹かれて飛んできた。見ると、一枚は水道料金の納付書のようである。納付者欄には近くの会社名が書いてあった。経理担当の人が銀行に収めた帰りに落としたのかしら、と思い、風に舞っていた数枚の紙と一緒に拾って、ほかの紙にも何気なく目を走らせた。
その瞬間、私は固まってしまった。
一枚はガス料金の領収証だった。会社名はさっきの納付書とは違う会社名が書いてある。まあこれはいい。
問題はもう一枚の紙だった。あろうことか、小切手だったのである。しかも額面金額は三千万円!
思わず辺りを見回した。誰かが青くなって探していないか、と思ったのである。しかしそんな人は誰も見当たらない。
もう一度改めて小切手を見る。銀行員が落としたのか。しかしそれにしては妙だと思った。横線判を押した形跡がなかったからである。
私達銀行員は小切手を回収すると、すぐにその場で『特定横線判』というものを押さねばならない。これを押しておくと、必ずどこかの口座に入金しなければ換金できない仕組みになっている。つまり拾ったり盗んだりしても必ず足がつくようになっている。
しかもこの横線判には銀行名と支店名、そして番号が入っており、これを見ればどの銀行のどこの支店の誰が回収したかが絶対にわかる。一人に一つずつ与えられており、営業に出る時には必ず持ち歩いている。他の営業マンに貸与するのは厳禁である。
この小切手にはそれが押されていない。振り出したままの状態である。ということは、振出人からこれを受け取った取引相手が落としたのだろうか。しかし裏面に入金先の名前はない。
この金額だ。落とした人は青くなっているどころの騒ぎではないだろう。
私は近くの交番に急いだ。
「あのお、小切手を拾ったんですけど・・・」
おまわりさんは丁度警邏に出る直前だったとみえて、外に出る準備をしながら明らかに面倒くさそうに
「なに?いくらの?」
と訝しそうな目を私に向けた。
「えと・・・三千万円なんですけど・・・」
おまわりさんは準備をやめて座りなおした。
「座って!今書類書いてもらうから!!」
・・・おかげで営業先に行くのがちょっと遅れてしまったが、これで安心、と胸を撫でおろした。
その日の夕方、帰店した私に店長がいきなり声をかけた。
「在間さん、今日○○の交差点で小切手拾ったんやな?」
報告はまだなのに、なぜ知っているんだろうと不思議に思い、
「あ、はあ」
と返事したら、
「あれはな、○○信金の営業マンが落としたものやったんや。『おかげでお客様との信用問題にならずにすんだ、在間さんにお礼を言いたい』って言うてさっきまで理事長(銀行でいうところの頭取)がお待ちやったんやけど、今しがた帰られた。『くれぐれもよろしく言うといてくれ』っていうことや」
と言って、気難しい店長は珍しくニコニコした。
そんな大事になっていたのか、とちょっとびっくりした。
理事長が来たおかげで、この『事件』は店中の話題になってしまった。
店長付きの運転手のおじさんはニヤニヤしながら、
「ワシにちょっと声かけてくれたら、『いやあ、偶然拾いましたんや』って言うて、しれーっとお礼貰ったったのにな。三千万やから、凄い額になったのに」
と冗談とも本気ともつかないような事を言った。
「いや、同業者はお互い様でしょ」
と笑いつつ、私はあらためてホッとしていた。
因みに理事長からの『お礼』は、近所の和菓子店の饅頭詰め合わせだった。
みんなの前で店長から渡されたから、必然的に
『お店のみなさんでお召し上がりください』
となった。
食堂のテーブルに饅頭の箱を広げていたら、また運転手のおじさんがやってきて、
「なんや、三千万も拾ってもうて、そんだけかいな。理事長もケチ臭いな」
とボヤくので、
「さあ、金粉でも入ってんのと違いますか。三千万円の饅頭やから、格別美味しいかも知れませんよ」
と冗談めかして勧めたら、おじさんは
「アホ言いな」
と言ってニヤニヤしつつ、饅頭を一つ持って食堂を出て行った。
残念ながら、結局私の口には一つも入らなかった。
あれを落とした信金職員はきっと生きた心地がしなかったろう。横線判を押さずに紛失するなんて、始末書ものである。下手したら降格とか減俸とかの話だ。
まあ、お客様にも、信金にも、実害がなくて良かった。
昨日、財布を拾って交番に届けた。おまわりさんの面倒くさそうな様子を見ていたら、大昔のこんな思い出が蘇った。
財布にはクレジットカードばかりが入っていた。きっとすぐに落とし主は見つかるだろう。お礼を貰う権利は放棄してきた。
昔からこういうものをよく拾うなあ、と我ながら呆れている。
下ばかり向いているつもりはないんだけどな。