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妹欲しい!

一人っ子を持つ親御さんなら、一度は我が子にこう言われたことがあるのではなかろうか。
「ねえ、弟か妹が欲しい!」

ウチの息子もよくこのセリフを口にした。
特に幼稚園や小学校低学年の間はよく言われた。お友達の弟妹と遊んだりする機会も多く、兄弟のじゃれ合いを目にして羨ましく思うことも多かったのだろう。
私の場合は身体がもう無理だと思っていたので、いつも曖昧な返事をしてごまかしていた。
金銭的なことを考えると一人っ子で良かったと思うことも多かったが、本人はやっぱり兄弟が欲しかっただろうなあ、とちょっと息子に申し訳なく思っている。

息子の場合は段々学年が上がるにつれて、こういうことは言わなくなった。
友達から一人っ子良いなあ、と羨ましがられたり、妹や弟の悪口を聞かされることもあり、物事は良い面があれば悪い面もある、と子供心に少しずつ悟っていったものと思われる。
母親も段々年を取っていくし、そのうち『どうも無理そうだ』と諦めたようだ。

だが、息子が四年生くらいの頃だったろうか、一度だけ熱心にこう言われたことがある。
「なあ、妹産んで!オレ妹欲しい!」
公文式の教室から帰ってきて急に言うので訳を訊くと、息子は嬉しそうにこんなことを話しだした。

息子の通っていた教室に、ある時小さな女の子が入会してきた。
可愛いワンピースを着て、二つに括った髪にサクランボの髪飾りを着けていたその子はとても幼く、息子は『めちゃくちゃ、ちっさいなあ』と思って、チラチラ見ていたそうだ。
先生と親御さんの会話を小耳に挟んだ息子は、その子が二歳であることを知った。
へえ、二歳から勉強すんのか、熱心やなあと感心したらしい。

暫くして、その子はお母さんやお父さんに送ってもらって通ってくるようになった。
親御さんに小さい手をバイバイ、と振って、一人で教材に取り組む姿を、息子はただビックリして見ていたそうだ。
椅子に座らせてもらっても、足が床に着いておらず、プラプラしている。そんなことお構いなしに、その子は先生に渡されたひらがなの練習教材を、ムチムチした小さな手に鉛筆を握っては、いつも懸命に書いていた。

その日もその子は来ていた。
息子は自分の教材をやり終えて、先生に提出した。採点を待つ間、そう言えばあの子はどうしているだろう、とふと振り返って後ろの方の机にいる筈のその子を見た。
するとその子は机に突っ伏して、気持ち良さそうにすうすう寝ていたらしい。
プリントの上によだれがだーっと流れていたが、先生たちは目で笑ってシーっと口に指を当て、そのままそっとタオルをかけてあげていたそうだ。
息子も思わずニヤニヤしてしまったらしい。

やがてその子はハッとして目を覚まし、うわーんと大きな声を上げて泣き出した。
プリントがよだれでべちゃべちゃになってしまったのが、悲しいらしかった。
教室は私語厳禁である。生徒全員がその子に注目していたが、全くお構いなしだった。
先生方は『ハイハイ、大丈夫よ~』と笑いながら駆け寄ってよだれを拭いてやり、その子に新しいプリントを渡した。その子はヒクヒク泣いて目をこすりながら、また鉛筆を握って一生懸命書き始めたらしい。

やがてお父さんがその子の妹を連れて、お迎えにやってきた。
するとその子は落ち着いた様子でお父さんに近づき、よちよち歩きの妹を抱きしめて、優しくなでなでしたのだという。
さっきまでよだれを垂らして泣いていたのに、すっかりお姉ちゃんの仕草を見せたその子に、息子はすっかり心奪われてしまったらしかった。
「めちゃくちゃ可愛かったわ!!オレ、あんな妹欲しい!今からでも産んでくれよお!」
息子が目を細めて話すその子の様子に、私もクスクス笑いを抑えられなかった。

息子は中学生になるまでこの塾を続けたが、その間この子はずっと一緒だったそうだ。
小学生になる直前はスイミングの帰りの格好で来たり、ピアノのレッスンバッグを持っていたりしたから、きっと習い事を沢山しているんだろう、と言っていた。
あの小さな妹を膝に乗せて、絵本の読み聞かせなんかもしていたそうだ。
想像するだけで目尻が下がってしまう。

もうあれから十五年くらいになる。
可愛かったお嬢ちゃんは今、高校生くらいになっている筈だ。
妹と仲良くやっているのだろうか。
息子とすれ違っても、お互いにもう分かるまい。
私の想像の中の彼女は、まだサクランボの髪飾りを着けた、二歳児のまんまだけれど。