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誰の恥?

「行ってきます」
朝、出勤しようとする夫を見送るため、玄関に急ぐ。
靴を履き、さあドアを開けるという段になって後頭部に目が行き、慌てて夫を引き留める。
「ちょっと、ちょっと待って!」
「ん?」
呑気に振り返る夫を玄関に置き去りにしたまま、洗面所に走る。
猛ダッシュして帰ってくると、後頭部に寝ぐせ直しのスプレーを噴射する。
「え?はねてる?」
「うん、すごいで。トサカみたい」
通勤鞄を肩から提げたまま、ストップモーションがかかったように静止する夫の後頭部と格闘する。

起床後、夫が真っ先に向かうのは洗面所である。
顔を洗い、髭を剃り、歯を磨く。そして鏡を見ながら、一応髪も整えている。
しかしウチは三面鏡ではないので、合わせ鏡でもしない限り、後頭部は見えない。
かくして夫がいざ出発という瞬間に、恐ろしいくらいにはねた後頭部を見て慌てふためくことになる。

言い訳をするわけではないが、朝はこっちだって忙しい。
自分の出勤準備をしながら朝食を用意し、洗濯し、掃除し、食事して・・・といった具合に、分刻みで動いている。
夫の後頭部をしげしげと見ている余裕などない。

はねている箇所をビショビショにし、ドライヤーで修復する。
夫の髪は癖があったり、真直ぐだったり、猫っ毛だったり、バシバシだったりする毛が混在していて、扱いが難しい。
「大丈夫やって。時間が経ったらなあ、汗と油で湿ってきて、ペションと倒れるさかい。それまでの辛抱や」
せっせと髪を直していると、夫が静止したまま言う。
自然の成り行きで髪が汗ばみ、はねがおさまってくるのを期待しているらしい。匂ってきそうな話である。
『辛抱』って、誰がするねん?アンタ?周囲の部下?

「どうせ俺みたいなオッサンの髪、誰も見てへんから心配要らん」
それって、ドンドン汚く老けていく人の発言ではないか。聞き捨てならない。
「そう言いだしたら終わってるで。オシャレな職場に行くんやから、もうちょっとちゃんとしようよ」
忙しく手を動かしながら苦言を呈する。

『オシャレ』云々が夫の天邪鬼の虫を刺激したらしい。
「オレは仕事しに会社に行ってるんや。仕事が出来るのと、髪がちゃんとしてるのは無関係や。将棋の羽生善治かって、いつも髪の毛クチャクチャやったやないか」
どうしていきなり、羽生さんの話になるのか。意味不明である。
気を取り直して言い返す。
「きっと畠田理恵も『あっ、今日名人戦やのに!』と思いながら、羽生さんの後頭部見てたに違いないと思うわ!ヨメはこんな頭のまま、夫を送り出したくないの!」
夫、すかさず反撃する。
「オレはこれでエエねん。きっと羽生さんも、ヨメさんにそう言うてるに違いない。もう行ってきます」
夫はドアを開けて、颯爽と出かけて行った。
後頭部はややマシになった程度である。
しょうがないので、ドライヤーとブラシを持ったまま見送る。
あ、そ。もうエエわ。勝手にしなさい。
後ろ指さされるのはアンタでっせ。

もう少し早めに
「な、はねてへんか?」
と訊いてくれれば対策のしようもあるものを、どうしてこういつも直前になってから、こちらが慌てふためく羽目になるのか。
気をつけていたいが、つい忘れてしまうのが悔しい。
もっと本人が自覚してくれれば、と思うが、今までの発言の内容を振り返ると期待できそうもない。

自分も若い頃には、寝ぐせがついたままの上司を、同僚とクスクス笑いながら見ていたこともあった。
奥さん、気付かないのかなあ、なんて噂し合っていたが、今は自分がその奥さんの立場だと思うと複雑な気分である。
後頭部のはねた夫を送り出すのは妻の恥・・・とまでは思わないが、職場で密かに笑われていると思うと、ちょっと哀れになる。

強力な寝ぐせ直しを買ってみた。果たして効果のほどは如何ほどのものだろうか。
玄関で噴射する機会がないことを祈っている。









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在間 ミツル
山崎豊子さんが目標です。資料の購入や、取材の為の移動費に使わせて頂きます。