ゆっくりで出来ないことは
何度か書いているが、私がクラリネットと初めて出会ったのは中学生の時である。しかし一年で吹奏楽部を辞め、あとは二十五歳で再び始めるまで全く吹いていなかった。
久しぶりに楽器を始めた超初心者の私を温かく迎え入れてくれたのは、中学生の時に吹奏楽部でほんの少しの間、一緒に吹いた仲間たちが立ち上げた楽団だった。
この楽団には私のような初心者は殆どおらず、皆かなりの上級者だった。中には音楽大学で学んだ人も数人いた。私にとってはみんなが「先生」状態だった。
最初のうちは合奏には入らず、離れた部屋でコツコツと一人音出しを続ける日々だった。
吹ける人ばかりだったから、取り組む曲もハイレベルなものが多かった。私にはかなり高い壁だったが、少しずつ取り組めば大丈夫、と毎週頑張って一人黙々と吹いていた。
ある時、いつものように配られた楽譜を一人でトロトロとさらっていたら、部屋をひょいと覗き込んだ人がいた。
団員指揮者のS君だった。
私より三つ四つ年下。大阪の某音大を出ていると聞いていた。専攻はチューバ。彼の音はユーフォニウムのようにまろやかだった。高校時代は奈良の名門校の吹奏楽部に所属しており、カーネギーホールでの演奏も経験しているということだった。
指揮は非常に見やすく、音楽監督の先生よりずっと上手かった。
要するに、私から見れば雲の上の人であった。
「在間さん、スケールやったことあります?」
彼はよく通る美声で、開けっぱなしのドア越しにそう話しかけてきた。
「スケール?って何?」
当時の私はスケールという言葉の意味すら知らなかった。
「運指練習のことですよ」
「それって、楽譜とかあるん?」
「ありますよ」
入ってきて、私の持っている教則本を手に取ってパラパラめくると、
「これです」
といって彼はスケール練習のページを開いて譜面台にのせた。
初めて見る譜面だった。
「やったことない・・・」
「マジですか。じゃあ今からでも遅くありません。毎日これやった方が良いですよ」
彼は大真面目である。
「面白くなさそうやねえ」
「面白くなんかないですよ。でもこれやっとかないと、曲を面白く吹けません」
彼は笑ってそう言うと、
「頑張って下さい」
と手を振って教室を出て行った。
尊敬するS君の言う事なので、やりたくはなかったがその日から少しずつ練習した。でもやっぱり面白くない。ついつい時間が短くなったり、いい加減にさーっとやって終わりにしたり、になってしまった。
そんなある日、私はスケールを「やっつけ練習」した後、コンクールでやる予定の大変難しい曲に取り組んでいた。
O.レスピーギ作曲の『ローマの噴水』であった。
この曲は本来はオーケストラに向けて書かれたものである。従ってオケのヴァイオリンのパートをクラリネットが担当することになる。休みが殆どなく、小さな音で連符をずっと演奏し続けなければならず、私には相当骨が折れた。
延々と続く真っ黒な譜面と一人格闘していると、またS君がひょいと覗いた。
「頑張ってますね」
とニコニコするので、
「むっちゃ難しいわ。心折れそう」
と半分本気で訴えると、
「インテンポで譜面にかじりつくからですよ。僕が前で指揮してあげますから、見ながら吹いてみて下さい。良いですか、始めますよ」
といって、メロディーを鼻歌で歌いながら目を瞑ってゆっくりと指揮を始めた。私が居る事なんか、忘れてしまったように見えた。
私は言われるままに彼の指揮を見ながら吹き始めた・・・。
「わあ、なんか出来た!ありがとう!」
所々つっかえつつも、難所をそこそこまともに吹けたので、ビックリしてしまった。
S君は笑いながら指揮を止め、
「ね?『ゆっくりで出来ないことは、速くなっても出来ない』っていうんですよ。先ずはゆっくりからです。覚えておいて下さいね。スケールもちゃんと続けて下さいよ」
ふーん、音大出は言う事が違うなあ、と思いつつ、その言葉は私の脳裏に深く刻み込まれた。
楽団に慣れてきた頃、仲間と鍋を囲む機会があった。その時S君の詳しい経歴を初めて聞いた。
彼が音大に進学して二年後、ご両親の営む会社が倒産し学費が払えなくなってしまった為、やむを得ず中退し、音楽とは全く関係のない今の仕事に就いた、ということだった。
「音楽の勉強って、自分でもその気になったら出来ますやん?基礎は二年間でも随分教わりましたし」
てっきり音大卒だと思っていた。飄々と話す彼に、凄いなあと感心してしまった。
いつだったか、
「欲しいのあったら、誰でも持っていって下さい」
と言って、車のトランクいっぱいのCDを楽団に持ってきたことがあった。
「オカンに『床抜けるからなんとかせえ』って言われてもうて。もう全部頭に焼き付いてるんで、良いかなと思って」
と笑っていた。
その時頂いた数枚は、まだ私のコレクションにある。
S君は今も同じ楽団で頑張っているようだ。
『ゆっくりで出来ないことは、速くなっても出来ない。先ずはゆっくりから』
今も練習する時の、私の座右の銘である。