忘れるために
その人はKさんといって、母の古い友人であった。友人といっても母よりは随分年上だったのだが、三人いる子供のうち下の二人が私達姉妹と歳が近く、家も近所というご縁でいつの間にか親しく話すようになったというだけである。
母はふるめかしい考え方の持ち主で、特に学歴の低い人を小馬鹿にして見下げ、会話すら積極的にしようとしないようなところがあった。だがKさんに関しては例外で、中卒だというのに随分親しく付き合っていた。子供心にそんな母の様子を珍しいなと思って見ていた。
Kさんは働き者だった。
朝夕の新聞配達、ヤクルトおばさん、清掃のパート、化粧品の訪問販売・・・私が覚えているだけでもいくつもの仕事を掛け持ちして、朝早くから夜暗くなるまで働いていた。
学校の役員や町内会の世話役も、頼まれれば二つ返事で引き受けた。いつも大きなしゃがれた声でよく笑う人だった。
母のいつもの交遊関係からはかなりはみ出した人だったけれど、私達子供はKさんが大好きだった。大人を相手に喋っている時の緊張を強いられることがなく、母以上に気楽に「あんなあ、おばちゃん」と話しかけることのできる、あったかい雰囲気を纏っていた。
一度母が
「あんた、何でそんなに休まずに働くのん?」
と訊いてみたことがあったそうだ。
Kさんの夫と長男は金融機関にお勤めで、お金に困っている様子はなかった。後の子供たちも皆公立学校に通っている。家は持ち家で、ローンはとっくに終わっているとのことだったから、母でなくとも不思議に思うのが当然だと思われた。
Kさんはちょっと笑って、
「最初はな、忘れたくて働きだしたんや」
とポツリと言ったという。
Kさんが忘れたかったのは、突然亡くした二人の子供のことだった。
まだ若いお母さんだった頃、近所にほんの少し出掛けた隙に、自転車で二人乗りして遊んでいた子供達は、坂道を一気にかけ降りた。少し広い道にさしかかった時、運悪くダンプカーが通りかかった。ブレーキは間に合わなかった。
五歳と三歳。即死だったそうだが、Kさんには小さな亡骸が、今にも起きて遊びだしそうに見えたという。
「あたしなあ、気イ狂うかと思うたで」
冗談めかしてそう言ったKさんの目には、うっすら涙が光っていたそうだ。
母は何も言うことが出来なかった、という。
そこからKさんは脇目もふらず、一心不乱に働きだした。そのうち、
「ありがとう」
「あんたよう働いてくれるから、助かったわ」
と周囲の人々からかけられる言葉に、少しずつ生きる気力を取り戻していったそうだ。
「初めはあの子達のことを思い出すのが辛くて、夢中で働きだした。そやけどしまいにな、そんな自分の働くことに感謝してくれる人が居ることに、喜びっちゅうんかな、感じるようになったんや。最近はただ楽しくて働いてる」
そういうKさんの笑顔はさっぱり明るかった、と母は言う。
Kさんはその後、近くで小さな飲食店を開いた。結構流行っていたが、旦那さんが病気になるとKさんはすっぱりと店を畳んで、看病に専念した。
Kさんは旦那さんのことを「お父ちゃん」と呼んで、人目も憚らずいつも「大好きだ」と言っていた。そんな大好きなお父ちゃんの一大事だから、きっと一生懸命看病したのだろう。その甲斐あってか、旦那さんはまもなく元気になった。
ところがしばらくして今度はKさん自身が病におかされ、驚くくらい呆気なく亡くなってしまった。
葬儀にはうちの母も参列した。大勢の人が別れを惜しみに来ていたらしい。遺影を胸にした旦那さんはしょんぼりとし、しっかり者の長男以外の二人は大きくなっているにもかかわらず、泣きじゃくっていたそうだ。
やっとあの子達のところに行けた、とKさんは笑っているだろうか。
経営する飲食店のカウンターで一人、昼間からコップ酒をひっかけながら、私に焼きそばをふるまってくれたKさん。煙草を燻らせながら、私の食べる様子を目を細めて見てくれていたのを思い出す。
時折切なく懐かしく思い出す、近所の一風変わった優しいおばちゃんである。