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しょうがないこと

少し前に、姑を老健に入所させる手続きに行った時の出来事である。
受付で姑と一緒に座っていると、八十代くらいの一人の男性が歩いてきた。杖をついてはいるが、結構な大股で早足である。見る見るうちに出入り口に着いてしまった。
施設は入所者の安全の為、自動ドアは事務所の職員が立ち会ってスイッチを入れないと自動では開かないようにしてある。どうするのだろうと見ていると、男性は暫く開かないドアの前で佇んでいたが、踵を返すと私達が座っているのには目もくれず、事務所につかつかと入っていこうとした。職員が出てきて、慌てて押しとどめる。

「○○さん、どうしたん?なんかあった?誰に用事?先生?」
事務所の職員が肩に両手を置き優しく声をかけたが、男性はそれを振り払って声を荒げた。
「お前ら、わしをこんなところに押し込めて、何する気や!家に帰らせろ!ドアのスイッチ入れろ!」
男性は凄い剣幕で怒鳴り散らした。姑は身を固くしている。大勢の職員が居るが、ここは事務室だから介護専門のスタッフはいない筈だ。大丈夫かな、と私は少し不安になった。

男性の声を聞きつけて、大勢の男性職員が集まってきた。男性を囲むようにしている。
「○○さん、まあ座ろうな」
「ちょっと落ち着こうか」
「何があったん?」
皆さん口調はとても優しいが、緊張感はこちらまで伝わってきた。
その時、男性が杖を振り上げた。
「ええ加減にせえ!子供とちゃう!わかってるんやぞ、わしは!」
そう言うと、一番近くにいた若い男性スタッフめがけて勢いよく振り下ろした。
私は思わず目を瞑って肩をすくめた。
間一髪のところで、男性スタッフは杖を握って止めたようだった。苦笑いしている。するとそれがまた男性の癇に障ったらしい。
「お前、ニヤニヤすんな!なにがおかしい!」
男性の怒りはとどまるところを知らないようだ。こう言う事には慣れておられるのだろうが、皆さん持て余し気味に見えた。

そこへ、騒ぎを聞きつけたのか、一人の若い小柄な女性看護師が飛んできた。
「○○さん!どうしたん!何があったん!聞かせてよ!」
と男性スタッフの中をかき分けるようにして杖の男性のところに駆け寄り、両手で男性の拳をぎゅっと握って顔を見上げるようにした。杖の男性がちょっと怯んだ。
「大きな声出さなあかんような事、なんかあったの?びっくりして飛んで来たよ!」
看護師さんは悲しそうに杖の男性に訴える。彼はすっかり大人しくなった。
「座って話しよか。あっちのソファに行こう」
黙って頷く彼を見て、周りの男性スタッフはホッとした様子で囲みを解いた。
看護師さんは彼の肩を抱えるようにして、ソファまで連れて行った。
「大人しいならはったね」
姑が小さく呟く。安心したようだ。
「そうですね」
私は二人の背中を見送りつつ、姑に軽く返して事務手続きの続きをした。

時々、介護職員の陰惨な行為がニュースになったりする。許されない事ではあるけれど、こんな風に杖で殴り掛かられたら誰だって咄嗟にはねのけてしまわないだろうか。若い男性なら当然、老人よりは力は強い。うっかり加害者になってしまわないよう、理性でコントロールする為にはかなりの鍛錬と忍耐が必要だと思う。
人間対人間のやり取りは、難しいことがいっぱいあるのだろう、としみじみ思いながら、ソファで話し込む二人の様子をそれとなく見ていた。

看護師さんが話すのを小耳にはさんだ感じでは、どうやら息子さんがお仕事で海外に行くことになり、ここに預けられたようだった。家に帰らせろ、息子がいるはずだから、と何度も仰っていたが、どうも息子の不在の理由を完全には理解出来ておらず、施設に居なければならないことに納得がいっていない様子だった。軽い認知症なのかもしれない。
この人はただ家に帰って息子と一緒に暮らしたいだけなのになあ、と思うとなんだか気の毒で堪らなかった。周りの人間がみんな、自分の帰宅を阻む悪者に見えたのだろう。自分の意思に反することをされたら、誰だって怒る。
彼の怒りの原因を知っていて、阻止せねばならない職員も辛いだろう。
息子さんもきっと、後ろ髪を引かれる思いだったに違いない。きっと私くらいの年代だろう。

でも彼の身の安全を考えれば、これがベストな選択なんだろう。息子さんが海外に行ってしまったのも、彼がここに居なければならないのも、彼が怒るのも、職員が持てあますのも、辛いけれど全部しょうがないことなのだ。
だけど彼に関わった全ての人の心の内を思うと、凄く切ない気分になってしまった。
「さ、○○さん、おやつの時間やし一緒に食堂に行こう」
看護師さんが彼を促す。彼は黙って俯いたまま立ち上がって、支えられながらとぼとぼと歩き出した。
さっきやってきた時とは別人のようなその足取りに、胸を締め付けられる思いがした。