素直でない夫と可愛くない妻
「なあ、人間はなんで働くか知ってるか?」
昨日の夕飯後、夫が得意そうに私に問いかけてきた。
こういう時、
「知ってるよ」
と言ってはいけない。
「さあ、なんやろね?」
とそれとなく先を促すようにする。早く話を終わらせる為である。
そして決して積極的に望んで聞くのではないという事を、ウニュウニュした曖昧な態度で暗に示しておく。相手がそれに気づくかどうかは全く別の話であるが。
「人間はな、自分の利益の追求にばかり走るけれど、それでは働く意味を見失ってるんや。働くっていうのはな、困ってる人を助けるっちゅうことなんや。利益は後からついてくるもんなんや。我先に人より少しでも多く、自分の方にだけ利益を持ってこようとしても、入ってくるもんは意外と少なくて、失うものの方が多いんやな」
滔々とご高説を垂れる夫は、これ以上ないくらい得意そうである。まるでリンゴが地球に引っ張られてると分かった瞬間のニュートンみたいだ。
「そう。大事なことやね」
私はこういう時、極めてニュートラルな反応をすることに決めている。批判もしない代わりに、やんやの喝采も送らない。
夫はそれが不満げだ。
「なんや、おかしいこと言うてるか?」
と口をへの字にする。
「ううん、全然。その通りやと思うわ」
あくまでも通常運転の私。
「じゃあなんやねん、その態度は?」
益々不満そうな夫。
「別に」
穏やかに微笑み、すましかえってシンクに空いた皿を下げる私。
見送る夫は最大級に不満そうであるが、それには気付かないふりを決め込む。
でも決して不機嫌には振舞わない。
私に言わせれば、今更何を嬉しそうに言うてケツかんねん、というところだ。そんなことも今までわからんかったんかーい、と思う。
だけどそんなことは口が裂けても言えない。夫にとってこの発見は、大きな喜びなのだろうから。
しかしこれは夫にとっては『目新しい発見』であっても、私にとっては『既に当たり前のこととして自らの考えに織り込み済みの事実』である。だから『その気付きがあったこと』を共に喜ぶことは出来ても、『夫と同じように目新しい発見として喜ぶ』ことは出来ない。
そんな私の思考回路に露ほども思いを致さない夫の態度は
『オレは凄い気付きがあったろう。どうや、参ったか』
と言わんばかりだ。
これをまともに受け取ってしまうのは鬱陶しい。鼻につく。こういう気分は要らぬ争いの火種になる。
だから私は通常運転に徹するのである。
こういう時、
「ホンマにあんたの言う通りよね。あんたって凄いわあ」
と如何にも自分には到底考え付かなかったような顔をして『夫を褒めそやす』という、臭い芝居を打つのが上手く夫を『操縦する』賢い妻の心得なのだろう。
でも不器用な私はそうは出来ない。
自分に素直でありたいからだ(単に頑固で物分かりが悪いともいう)。
私に言わせれば、こういう気付きは人にマウントして知らしめるようなものではない。
『気付く』ということは、静かな喜びに『自分が』『内側から』満たされることだ。他人に『聞いて聞いて!』という事によって満たされたい気持ちがあるなら、それは真の気付きとは呼べない。
そう言ってやりたいが、夫には生憎、その言葉を聞き入れるだけの素直さが欠けている。その素直さの欠如こそが、夫の『気付き』を遅らせている大きな要因なのだが、残念なことにこの人はそれを決して認めようとしない。
でも外野がどうこう言って、人間の性分が瞬時に変わるものではない。
悪い人ではない。
結局夫の変化を待つしかないのである。
この調子で職場で若い部下にこういうお説教を垂れていたら、さぞかし嫌われるだろうなあ、と少し心配にはなるが、まあ夫の部下は皆非常に優秀で頭の回転が速い子ばかりだから、きっと『右から来たものをさっさと左に受け流す』術を心得ているだろう。
年寄りがお耳汚ししてたらスイマセン、と心の中で手を合わせておくことにする。
夫よ、お世辞の言えない、可愛くない妻でごめんなさいね。
ま、そんな私だから、未だにあなたの妻をやっているんだろうけどね。